ファイティング原田がエデル・ジョフレを撃破して、フライ級に続いて「議論する余地のない世界王者」になったことは、史上初のフライ〜バンタム二階級制覇として国際殿堂にも記されています。
しかし、「ジョフレ打倒」が、絶対不可能と言われた軽量級二階級制覇の偉業が霞んでしまうほどの大偉業であったことは、少しでもボクシングに関心を持ったことのある人ならご存知でしょう。
軽量級のボクサーが〝ピン〟でリング誌のカバーを飾ることは、まずありえません(ローマン・ゴンザレスは複数のボクサーと共に表紙に登場したことはありましたが)。ましてや米国やメキシコのボクサー以外では。※もちろん、ここでも軽量級時代から何度もカバーしていたパッキャオは例外です。
軽量級への関心が今以上に低かった60年代においては、その傾向はさらに濃厚になります。ただ、ジョフレだけは例外でした。
1965年5月18日名古屋愛知県体育館でファイティング原田は、エデル・ジョフレを攻め落としてボクシング史に残る大番狂わせを演じて見せました。
しかし、半世紀以上の年月が流れ「第1戦は地元判定だった。サンパウロでやってたら勝敗はひっくり返っていた」「当時の8度防衛は今なら単純計算でも32度防衛、どんなに偉大なジョフレでも劣化する段階を迎えていたはず」「原田の恐れを知らないラッシュとスタミナは、劣化したジョフレにとって最も相性が悪いジョーカーだった」…日本ボクシング史上最も偉大な勝利が幸運と相性だけでもたらされたという見方をする人もいます。
どっちのターフ(サッカーで言うホーム)に引っ張り込むかは、今も昔もボクシングの勝負の一部です。もし、1988年に尾崎富士雄がマーロン・スターリングを押しまくったのが、アトランティックシティではなく後楽園ホールのリングであったなら文句無しの判定勝ちで、日本人初の世界ウェルター級王者が誕生していたでしょう。
確かに、サンパウロで同じ展開なら負けていた可能性大です。しかし、それは原田陣営も十分わかって敵地に乗り込んだでしょう。サンパウロでやっていたら、ジョフレを腰砕けにした4ラウンドにもっと強引に倒しに行って試合はあっけなく終わっていたかもしれません。
「11階級11人王者時代まで考慮すると、今なら優に50度を超える連続防衛に匹敵するロードを歩んできたジョフレが肉体的に衰え、精神的に倦怠期に入っていた」という見方は、ジョフレは原田初戦で29歳(当時の軽量級は30歳が限界とも言われていました。原田は当時22歳)、ある程度は的を得た推測かもしれません。
実際に、このタイトルマッチは当初4月7日にセットされていましたが、ジョフレが「2月に風邪をひいて十分な練習を積めなかった」として延期しているのです。黄金のバンタムの心身に何かが起き始めていたサインかもしれません。
しかし、「ジョフレ打倒」が、絶対不可能と言われた軽量級二階級制覇の偉業が霞んでしまうほどの大偉業であったことは、少しでもボクシングに関心を持ったことのある人ならご存知でしょう。

軽量級への関心が今以上に低かった60年代においては、その傾向はさらに濃厚になります。ただ、ジョフレだけは例外でした。
1965年5月18日名古屋愛知県体育館でファイティング原田は、エデル・ジョフレを攻め落としてボクシング史に残る大番狂わせを演じて見せました。
しかし、半世紀以上の年月が流れ「第1戦は地元判定だった。サンパウロでやってたら勝敗はひっくり返っていた」「当時の8度防衛は今なら単純計算でも32度防衛、どんなに偉大なジョフレでも劣化する段階を迎えていたはず」「原田の恐れを知らないラッシュとスタミナは、劣化したジョフレにとって最も相性が悪いジョーカーだった」…日本ボクシング史上最も偉大な勝利が幸運と相性だけでもたらされたという見方をする人もいます。
どっちのターフ(サッカーで言うホーム)に引っ張り込むかは、今も昔もボクシングの勝負の一部です。もし、1988年に尾崎富士雄がマーロン・スターリングを押しまくったのが、アトランティックシティではなく後楽園ホールのリングであったなら文句無しの判定勝ちで、日本人初の世界ウェルター級王者が誕生していたでしょう。
確かに、サンパウロで同じ展開なら負けていた可能性大です。しかし、それは原田陣営も十分わかって敵地に乗り込んだでしょう。サンパウロでやっていたら、ジョフレを腰砕けにした4ラウンドにもっと強引に倒しに行って試合はあっけなく終わっていたかもしれません。
「11階級11人王者時代まで考慮すると、今なら優に50度を超える連続防衛に匹敵するロードを歩んできたジョフレが肉体的に衰え、精神的に倦怠期に入っていた」という見方は、ジョフレは原田初戦で29歳(当時の軽量級は30歳が限界とも言われていました。原田は当時22歳)、ある程度は的を得た推測かもしれません。
実際に、このタイトルマッチは当初4月7日にセットされていましたが、ジョフレが「2月に風邪をひいて十分な練習を積めなかった」として延期しているのです。黄金のバンタムの心身に何かが起き始めていたサインかもしれません。
もちろん原田陣営は「這ってでも来い」と、延期を拒否しますが、すぐに王者の提案を受け入れました。
実は原田もオーバーワークで疲労が蓄積、まともな状態で4月7日を迎えるのは難しい状態だったのです。この猛練習、オーバーワークが功を奏します。当時、コンディショニングや超回復、トレーニングのフェーズについてどの程度の知識があったかわかりませんが、ピーキング曲線が5月18日に頂点を舐めていたであろうことは容易に想像ができます。
しかし、ジョフレは強豪ベルナルド・カラバーリョを粉砕して8連続防衛を果たしたばかりです。その後、3年以上のブランクを作りながらフェザー級王者になった怪物的な実力を鑑みたとき、あのときのジョフレが少なくとも肉体的に大きな衰えに蝕まれていたとは到底考えられません。
そして、多くの日本人が勘違いしているのが「原田の無尽蔵のスタミナと突貫攻撃が、ジョフレにとって相性が悪かった」ということです。もちろん、それは原田の大きな特徴で武器です。
しかし、ジョフレが最も評価しているのはスタミナでもラッシングパワーでもありません。多くの人にとって最も意外な二つです。

ジョフレは「原田は身長とスタイルの差を利用してバッティングを多用した。それも彼の戦略だろうし、今までも〝頭〟をぶつけてくる相手は何人もいたけが、原田はパンチが速いうえに回転力もすごいから避けることが出来なかった。第1戦は私が勝っていたと思うが、こいつは倒せないと思ったのは原田だけだ」と言い訳もブレンドしていますが、今風に言うなら「原田半端ないって」というところでしょう。
実は原田もオーバーワークで疲労が蓄積、まともな状態で4月7日を迎えるのは難しい状態だったのです。この猛練習、オーバーワークが功を奏します。当時、コンディショニングや超回復、トレーニングのフェーズについてどの程度の知識があったかわかりませんが、ピーキング曲線が5月18日に頂点を舐めていたであろうことは容易に想像ができます。
しかし、ジョフレは強豪ベルナルド・カラバーリョを粉砕して8連続防衛を果たしたばかりです。その後、3年以上のブランクを作りながらフェザー級王者になった怪物的な実力を鑑みたとき、あのときのジョフレが少なくとも肉体的に大きな衰えに蝕まれていたとは到底考えられません。
そして、多くの日本人が勘違いしているのが「原田の無尽蔵のスタミナと突貫攻撃が、ジョフレにとって相性が悪かった」ということです。もちろん、それは原田の大きな特徴で武器です。
しかし、ジョフレが最も評価しているのはスタミナでもラッシングパワーでもありません。多くの人にとって最も意外な二つです。

日本ボクシング史上最高試合 ジョフレvs原田
In May ‘65, Jofre took to the road again, returning to the “Land of the Rising Sun,” this time to face former flyweight world champion Fighting Harada. 1965年5月、ジョフレはカラバーリョ戦に続いて敵地で防衛戦のリングに上がった。今度の相手は〝日出ずる国〟の前フライ級王者ファイティング原田だった。
FASTEST HANDS
Fighting Harada: (He) had a lot of velocity in his arms, reaching to hit me recklessly several times. It was a style of his own that hindered the opponent when he tried to hit him.
【最もハンドスピードがあった対戦相手】原田は右も左もとにかく速かった。相打ち覚悟で踏み込んで打って来るから、何度かまともに被弾してしまった。このスピードが、原田にパンチを当てることを難しくしているのだ。
そして SMARTEST(最も頭脳的)なボクサーでも、原田を挙げているのです。※ちなみに総合的に最も優れている(BEST OVERALL) のはジョー・メデルだとしています。
ジョフレは「原田は身長とスタイルの差を利用してバッティングを多用した。それも彼の戦略だろうし、今までも〝頭〟をぶつけてくる相手は何人もいたけが、原田はパンチが速いうえに回転力もすごいから避けることが出来なかった。第1戦は私が勝っていたと思うが、こいつは倒せないと思ったのは原田だけだ」と言い訳もブレンドしていますが、今風に言うなら「原田半端ないって」というところでしょう。
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