カテゴリ: 壁を越える人々

リングの中なら怖いもの知らず、4階級も上のアミール・カーンとの試合だって、ビリーは二つ返事で引き受けた。

口が悪いファンは「早い話が噛ませ犬じゃないか」と後ろ指をさす。「トップランクや帝拳、カーンみたいなパワーハウスに都合の良い、不幸な噛ませ犬」と嘲笑う。

なるほど、面白いモノの見方じゃねぇか。

ビリー・ザ・キッドが不幸だって?

実に面白い。

お前たちは、トップランクや帝拳、カーンに一泡吹かせるチャンスを掴んでローブをくぐるビリー〝The Kid〟ディブのギラギラした目を見たことがあるのか?

あいつが不幸に見えるってんだから、見たことがねぇんだろう。

あんなに幸せそうな男はいないぜ。世界を驚かせてやるって目をしてた。

そんな幸せな経験、あんたらは一度も巡り会うことなく、つまらない人生を終えるんだろ?

あいつのギラギラした目とは正反対の魚の腐ったような目をして「世界を驚かせてやる」なんてハッタリをかますことなんて一度も出来ないまま、死んでいくんだろ?




といういうわけで、ビリーは、同じオーストラリア人のジョージ・カンボソスとの試合に備えてキャンプに入った。

ボクシングファンなら、カンボソスの名前を知らないわけがあるまい。〝Ferocious(獰猛な)〟ジョージはオーストラリアじゃ、ちょっとしたスポーツセレブさ。

あのマニー・パッキャオのスパーリングパートナーをつとめ、テオフィモ・ロペスに初黒星を付けたスーパースターだ。

38歳のビリーより年は8歳下のスター選手カンボソスに勝てば何が起きるのか、誰にだってわかっていた。



自己紹介が遅れたな。

俺はビレル〝Baby Face〟ディブ。俺もプロボクサーだ。3歳上のビリーと同じラストネームだが、兄弟じゃない、親友だ。同じレバノン系のオーストラリア人だ。

無敗のままジュニアライト級のナショナルタイトルを獲った。

このクラスでWBOオリエンタル(暫定)、IBFオーストラリアンのベルトもコレクションした。

ビリーの大勝負、俺以外にスパーリングパートナーに相応しいやつはいない。

ボクサーの性ってやつで、練習のスパーリングがオーバーヒートすることはよくあることだ。

でも、このキャンプは特別。ビリーが万一怪我でもしたら一世一代のチャンスをフイにしてしまう。

それなのに、ある日、ビリーが俺のボディを受けて、がひどく痛がってスパーは中止。肋骨を痛めたんじゃないかと心配して、病院に急行したんだ。

医者は骨に異常はないと診断したが、ビリーは帰宅してからも「この痛みは普通じゃない」と悶えていた。

次の日も病院に行くと、血液疾患の専門医が他の病院での検査を薦めてくれた。

すると、そこで結腸癌が見つかった。

「ものすごい早期発見だ。この段階の結腸癌は自覚症状がほとんどないはずなのに」と驚く医師たちを見ながら、俺たち二人は「スパーリングでボディを叩いたのさ」と笑って見せた。

医師たちは「あんたたちがプロボクサーなのは知っていたけど、まさかそんな方法で早期発見できるなんて!」と、また驚いていた。

俺が「これからは下手な健康診断よりも激しいスパーで早期発見する時代だ」と冗談を言うと、みんなで大爆笑。


まあ、でも…。

人生ってやつはどこまでも残酷で、何が起きるか誰にもわからない。

結腸から腫瘍を切除したビリーだったが、結腸癌はアンダーカードだった。

その後の検査でメインイベンターが発見されてしまった。バーキットリンパ腫だ。進行性が早く、あっという間に死に至ることもある、恐ろしい癌だ。

「人生はボクシングほどうまくはいかない」って言ったのはイベンダー・ホリフィールドだったが、まさにそういうことだ。


ビリーは世界チャンピオンにもなったプロボクサーだ。戦うことには慣れているが、これはもう、全く種類の違う厄介な戦いだった。

身長もリーチも、サウスポーなのかオーソドックスなのか、階級も何もかもわからない、そもそも目に見えない敵だ。どうやって戦って良いのかさえわからない。

わかっていることは敵は強大で攻撃的で、無慈悲であることだけ。

ビリーはこの戦いが極めて厳しいものになると覚悟していた。そして、絶対に負けられないということも。

彼は、最初の妻サラを癌で失っていた。ビリーとサラは二人で最後まで戦ったが、悲しい結果に終わってしまった。

ビリーにとって、癌との戦いはこれが初めてではなかったんだ。




ビリー・ザ・キッドは56試合のリングに上がり、48勝27KO6敗2分2NCの戦績を残している。

負けてもそのたびに必ず、立ち上がって来た。

ヤツはド根性の男だからな。56試合も戦って連敗は一度もない。勝負事は苦しいときほど大事だってことをわかってるからさ。

連敗したら商品価値が下がるってのは二の次で、これはファイターのプライドの問題だ。

癌に愛する人を奪われ、次は自分も倒される…それは、絶対に連敗しないビリーの流儀、信念に反することだった。


This was one fight he couldn’t lose. 

REFUSE 2 LOSE.


絶対に負けられない戦いが、始まった。再婚した妻と幼い息子を残して死ぬわけにはいかなかった。

戦いの場所は病室、ベッドの上。

ベッドに寝ながらビリーは「ボクシングじゃなくて良かった。ボクシングだとこれはダウン。とっくにテンカウントされてKO負けだった」と軽口を叩いていたが、ボクシングなら主審やコーナーが救ってくれるが、癌は…。容赦がなかった。


After nearly six months of treatment that took its toll on Dib emotionally and physically, he lost his hair, endured blinding headaches and felt constant pain. It took him to the very precipice. 


全身の激しい痛みにのたうち回り、食欲を失い痩せ細り、化学療法で髪の毛が全部抜けたビリーを見るのは、…俺の人生で一番辛いことだった。

息をするのも苦しいはずなのに、あいつは俺を見ると冗談を飛ばしてくるんだ。

「見ろよ、この体。きっとバンタム級リミットも割ってるぞ。ジュニアライト級であんなに苦労した減量が嘘みたいだ!」。




意識朦朧のビリーが、うわ言のように神に祈っているのを聞いてしまったことがある。

「運命は最初の妻を奪い、今度は私を連れて行こうとしている。運命は潔く受け入れます。でも、私が死んだ後、妻と息子は不幸にしないでください。どうか二人の面倒を見てやってください」。

「何を弱気になってるんだ!2連敗してもいいのか!」。心の中で叫びながら、俺には泣くことしかできなかった。

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君はビリー・ディブを覚えているだろうか?

ひと昔前に豪州のリングで活躍した、あのビリー〝The Kid〟ディブだ。レバノン系だが、シドニー生まれのシドニー育ちのオージー。

ひと昔前、なんて言っちゃあ怒られるな。まだ現役バリバリなんだから。


ディブは2003年のバンコク世界選手権に出場するなど、98勝15敗のアマチュアレコードを残してプロ転向。

2004年8月15日にデビュー。プロ5戦目でジュニアライト級のナショナルタイトルを獲得すると、6戦目でIBOアジア・パシフィック同級タイトルも手中に収める。

ビリーは世界タイトルの可能性をより広げるために、フェザー級にクラスを落とし、WBOアジア・パシフィックのタイトルを2階級制覇。

22歳、20戦全勝11KOと無敗のまま、2008年7月30日にゾラニ・マレイリに判定勝ち、IBOジュニアライト級王者に就いた。

そして、同年10月18日には満を持してWBOフェザー級王者スティーブ・ルエバノに挑戦、ここは0−3で判定負け、プロ初黒星を味わう。

ここから3年11試合の雌伏の間には、日本の山口賢一とも戦った。片足をリング外に踏み外した日本人にパンチをまとめる反則行為を犯しながら主審はTKOを宣告。山口陣営の抗議で無効試合に変更される、まあ言ってみればちょっとした黒歴史だ。



25歳になったビリー・ザ・キッドは2011年7月29日、IBFフェザー級王者ホルへ・ラシエルバを地元シドニーの五輪記念公園スポーツパークに引っ張り上げて3−0の判定勝ち、悲願のメジャータイトルを掴み取った。

レバノンにルーツを持つビリーだが、生まれも育ちもシドニー。オーストラリア・ボクシング界のスター選手に登り詰める。



初防衛戦では無敗のイタリア人、アルベルト・セルビデイを初回KO。

オーストラリアで戦えば無敵のビリーだったが、3度目の防衛戦は米国リングに引きずり上げられてしまう。相手は米国を主戦場とするトップランク傘下のロシア人、イブゲニー・グラドビッチ。

ビリーは持ち前のガッツで粘るも、3−0の判定負け。タイトルを手放してしまう。


それでも、メガファイトのセミファイナルという、軽量級ボクサーにとっては最高のリングがリベンジの舞台として用意される。

2013年11月24日、マカオはベネチアンリゾート・コタイアリーナ。なんと、メインはマニー・パッキャオ(vsブランドン・リオス)だ。

しかし、グラドビッチに削られたビリーは9ラウンドでキャリア初のTKO負け。

まだ28歳とはいえ、40試合近くも激闘を積み重ねてきたオージーに地元メディアは引退を薦めたが、あの男はそんなことを素直に聞くファイターじゃあない。




ジュニアライト級に戻して3連勝、タイが好き勝手にしていた地域タイトルのパン・アジアを奪取すると、思わぬオファーが舞い込む。

軽量級では世界的なプロモーター、日本の帝拳からのオファーだ。断る理由はどこにもない。

相手は、WBCジュニアライト級王者・三浦隆司。1歳年上の30歳だったが、強打の日本人はプライムタイム。そして、何よりも帝拳の軽量級を操るマッチメイクの妙はここでも冴え渡っていた。

「三浦の4度目の防衛戦の相手はビリー・ディブ」。

「ボンバー」と呼ばれた三浦の火力を世界に見せつけるのにディブ以上のダンスパートナーは考えられない。メディアやファンは「さすが帝拳」と唸るしかなかった。

わかりやすくいうと、世界的な知名度を持ちながら俊敏性と反射が明らかに衰えているオージーが36分間、三浦の爆撃から逃れることはほぼ不可能と思われていたのだ。

試合は帝拳の台本を上回る惨劇になる。

オープニングから2つのラウンドは上手く戦ってたんだが…第3ラウンド、ロープぎわに追い込まれたビリーは、ついにボンバーレフトを被弾。ロープにもたれて失神したところに追撃まで喰らってジ・エンド。

今度こそ引退と思われたビリーだったが、この男はどこまでも往生際が悪い。

再び連勝の波に乗ると、2018年8月3日に空位のIBFジュニアライト級のタイトルをテビン・ファーマーと争う。しかし、0−3の判定負け。

ところが翌2019年、またもやとんでもないオファーがビリーに届いた。モテモテである。

7月12日、今をときめくサウジアラビアでアミール・カーンとやはり空位のWBCインターナショナル・ウェルター級王者決定戦で拳を交えたのだ。

キャリア初のウェルター級、ディブは初回からカーンの迫力にクリンチを繰り返し、3回にボディ、4回に強烈なコンビーネーションでダウンを奪われると、コーナーからタオルが投入される。

カーンとサウジアラビア、ムスリムのビリーが選ばれたことは当然のように思えるが、そもそもの商品価値、名前ががあってこその話だ。



さて、今夜のお話の主人公、ビリー〝ザ・キッド〟ディブはサウジアラビアで大儲けしたにもかかわらず、グローブを吊さずにまだまだ戦い続ける。

2022年3月19日、36歳のディブは無敗のIBFインターナショナル/WBOアジア ライト級王者ジェイコブ・ウンに挑戦。

さすがのビリー・ザ・キッドも「この試合に負けたら引退」とロープをくぐり、大健闘するも5ラウンド終了時点で3−0でリードを許す。

身長・リーチともに181㎝の〝The Flamingo〟ウンはこの試合に勝てば、オーストラリア最大のスター、ジョージ・カンボソスとの対戦交渉が始まることになっていた。

しかし、6回、両者が揉み合うと、ウンがビリーを投げ飛ばしてしまい、まさか、まさかの失格負け。

「これでまた引退するチャンスを失ってしまった」と笑うビリーに、またまた幸運が舞い込む。

ウンに代わって、カンボソスとのスーパーファイトに挑むのだ。

2022年秋、キャンプインしたビリーは「俺を引退に追い込んでくれるのはウンではなくカンボソスだったようだが、それも違う。この試合に勝てばワシル・ロマチェンコか?ガーボンタ・デービスなんてのもいいね。オーストラリアのボクサーがPFPに入るのはジェフ・フェネック以来かな?」とノリに乗っていた。

2023年には本当にロマチェンコやタンクとラスベガスあたりでビッグファイト、そんな夢を見させてくれるかもしれない、そう思わせる男がビリーだった。



しかし…。なんてこった。

こんなことが現実にあっていいのか?

どんな逆境も乗り越えてきたビリー・ザ・キッドとはいえ、こんなタイミングで人生最強の敵が現れてしまうなんて…。

さて、いよいよ、ここからが本題だ。

何が不運で何が幸運か、それは神様にしかわからない、そういう話だ。


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脳震盪を起こすことを目的に人間の急所にパンチを打ち込む。その技術を競い合うのが、ボクシングというスポーツです。ボクシングをスポーツと呼ぶのなら、ですが。

井上尚弥はそんな技術を操る、最高の使い手の一人です。

そのモンスターが焼け野原にしたバンタム級シーンでは、新しい息吹も芽生えています。

Transnational Boxing Rankings Board(TBRB)では現WBA王者の井上拓真が4位、西田凌佑が7位、比嘉大吾が8位、栗原慶太が9位、堤聖也が10位と、日本人ファイターが半数を占めています。

ESPNでは拓真が2位、石田匠が6位、西田凌佑が7位。

リング誌では西田凌佑が7位、拓真が8位、比嘉が9位。

アルファベット団体のランキングではWBAが王者に拓真、4位に堤、5位に比嘉、7位に那須川心、12位に武居由樹。

WBCは王者アレハンドロ・サンチアゴ、1位に中谷潤人、6位に比嘉、7位に西田、10位に石田、11位に堤、13位に栗原、16位に武居。

IBFは王者エマヌエル・ロドリゲス、1位に西田、3位に石田、4位に堤、10位に比嘉。

WBOは王者ジェイソン・モロニー、2位に西田、3位に石田、4位に比嘉、10位に武居、12位に堤。



TBRBにランクされている西田はIBF王者ロドリゲスへの挑戦が決定。比嘉は元WBCフライ級王者、石田はWBAジュニアバンタム級王者カリド・ヤファイに挑戦した経験があります。

栗原は世界にチャージしながらも、昨年10月にフロイラン・サルダールに初回でノックアウト負け。キャリア14年、31歳のファイターは「終わった」とも見られましたが…。



栗原は、初回KO負けを喫したサルダールとのダイレクトリマッチ(1月26日フィリピン・セブ)に挑みます。

完全敵地、KO負けの残像、2連敗ならキャリアの終焉…さまざまな重圧を跳ね返して、8ラウンドでフィリピン人を沈めて見事雪辱。

直近4戦(千葉開/サルダール)が「KO負け→ダイレクトリマッチ・KOでお返し」という栗原、面白いファイターです。

今回の1戦で栗原はOPBFタイトルを奪還するとともに、空位のIBFパン・パシフィックの王座も手に入れました。今月のランキングでは、アルファベット団体が栗原を入れてくるでしょう。

世界タイトルは厳しいように見えますが、チャンスを与えて欲しくなります。地域タイトルにも関心を示した天心との試合も面白い気がしますが…。
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ジュニアフェザー級を完全統一、多くのメディアでPFPトップを争い、2023年のSugar Ray Robinson Awardにも選出された井上尚弥。

122ポンドではまだ2試合しかリングに上がっていない井上ですが、その輝きは日本史上最高と断言して差し支えないでしょう。

しかし、モンスターの輝きとは別種類の、強烈な個性を放つファイターが、このクラスを彩ってきたことも忘れてはなりません。

Weight-¥のコピー



横田広明もそんな122パウンダーの1人でした。

1961年10月19日、千葉県銚子市生まれ。1979年、17歳で「負けたら引退」とプロデビューも、その年の4戦目で敗北。有言実行で引退。

その後、横田は就職。社会人としてのキャリアを歩みます。

ところが、何を思ったか1987年、8年ものブランクからリング復帰。日本レベルではトップ戦線を守りながら、1990年10月8日、日本ジュニアフェザー級王者・西條学を8ラウンドKOの大番狂せで戴冠します。

日本ジュニアフェザー級王者・横田広明は、アートネイチャー池袋東支店のブロック長として、忙しく働く二刀流でした。

1993年には32歳にして世界初挑戦のチャンスが巡ってきます。

「長期休暇をとって試合に備えろ」という会社の上司の声を横田は「感謝しますが、このスタイルでここまできました。仕事をおろそかにしたくありません」と断り、いつも通りの生活で大勝負に挑みました。

5時半起床、8kmのロードワークと筋トレをこなしてから出勤。ジムワークは夜7時半からでしたが、残業や会議がある場合は会社に戻りました。



しかし、相手が悪すぎました。王者は階級最強の呼び声高い強打のウィルフレド・バスケスです。11月18日、後楽園ホール。下馬評は「圧倒的不利ではなく絶望的不利」。

「初回で倒されたら事故だと思ってください」。試合が決まってから横田が口にした言葉は、冗談でも弱気でもなかったことは、この試合内容と、バスケスの戦いぶりを考えると非常に納得のいくことでした。

33歳の2階級制覇王者は、強打のプレッシャーで序盤で主導権を握うのが勝利の方程式。葛西裕一と渡辺雄二はこの波に飲まれてしまうことになるのですが、「序盤で勢いつかせてはいけない」というバスケス対策をよく理解していたのかもしれません。

サウスポーの横田は右回りが定石ですが、左へのステップを多用してバスケスの強打を空転させます。

前半4ラウンドは上場の滑り出しでしたが、第5ラウンド。横田の右アッパーにバスケスが右のショートフックをカウンター。ダウンした横田は、不用意なパンチを後悔しますが、ダメージは深い。

ダメージから足が思うように動かない挑戦者は、幻惑のステップを捨てて、バスケスとの打撃戦に突入。このBプランも想定内だったはずです。世界的な強打者相手に互角の撃ち合いを展開します。

第9ラウンドに、バスケスがローブローで減点。ホームタウンとの合わせ技で、この減点が勝負のあやになるかもしれない…12ラウンド36分間戦った採点は112-116*2/113−115のユナニマスでバスケスが防衛。

王者の「カネ次第で再戦に応じる」という言葉は、苦戦を認めたようにも聞こえました。

しかし、2度目のチャンスが訪れることはなく、2007年6月15日の試合を最後に横田はキャリアを終えてしまいます。

2007年…。そうです。バスケス戦からなんと14年後のことです。

この14年間でも横田は引退と復帰を繰り返し、JBCが禁じていたジムの代表と選手の二刀流を事実上実現(海外ではカネロ・アルバレスやフロイド・メイウェザー、マニー・パッキャオ、オスカー・デラホーヤらいくらでもいます)、37歳定年ルールも改訂させ46歳までリングに上がりました。




私がプロボクシングに興味を抱いた頃の日本ジュニアフェザー級王者の系譜は、六車卓也(第15代)、マーク堀越(第16代)、高橋ナオト(第17代、西條学(第18代)…そして第19代日本ジュニアフェザー級王者・横田広明。そして、横田が返上した空位の王座を決定戦で獲得したのが、日本ボクシング界の生きる伝説、長野ハルが「大場(政夫)君に似ている」と惚れ込んだ葛西裕一でした。
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井上尚弥が7ヶ月で完全統一してしまった122ポンド、55.33826kg、ジュニアフェザー級。

井上が焼け野原にしたバンタム級と違って、井上が乗り込んだときはすでにグダグダだった感もあります。

それでも初防衛戦の舞台は東京ドームも候補、盛り上がっています。

しかし、もともとジュニアフェザー級は世界的に、陽の当たることの少ない地味な階級であり続けていました。



しかし、だからといって、魅力的なファイターがいなかったわけではありません。

すぐに思い出されるのは、このクラスで世界デビューしたマニー・パッキャオかもしれません。

しかし、パッキャオだけではありません。

どういうわけだか、このクラスには妙に個性的なファイターが集まって来るのです。


昨日、サラリーマンボクサー、阿部麗也の世界挑戦が決まりましたが、最初に紹介するのは元祖サラリーマンボクサーです。



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1月23日(日)エディオンアリーナ(大阪)
◾️コミッション:日本ボクシングコミッション
◾️プロモーター:本田明彦(帝拳プロモーションズ)

121ポンド(約54.89キロ)契約8回戦




13年ぶりに来日したイグナシオ・ナチョ・ベリスタインは18日に帝拳ジムで行われた公開練習のあと「テクニック的にはロブレスの方が優れている。サウスポーに勝つために練習をしてきた。彼は(私が育てた)30人目の世界王者になる可能性がある」と自信を語りました。

トレーナーの手腕を語るとき、多くの世界王者を「育てた」と表現されることがあります。

「育てた」という言葉からは、アマチュア時代からボクシングの〝ABC〟を教えて、プロ転向後もトレーナーの文字通り「指導(train)した」と受け止めてしまいますが、現実にはそうではありません。

その意味で、ファン・マヌエル・マルケスはナチョが育てた最高傑作です。プロに入ってからコーナーに立ち続けたマルケス弟も「育てた」と言っても全く差し支えないでしょう。

一方で、29人の中にはオスカー・デラホーヤやフリオ・セサール・チャベスJr.のような、「育てた」とは到底言えない選手も含まれています。

ゴールデンボーイに至ってはコーナーに着いたのは、アンジェロ・ダンディと共同トレーナーをつとめた1試合(マニー・パッキャオ戦)だけ。

それでも、欧米目線でナチョが関わった最も有名な選手となるとゴールデンボーイ一択、軽量級に理解が深い日本でも「デラホーヤらを育てた名トレーナー」という紹介になってしまいます。

フレディ・ローチが育てた選手にマイク・タイソンが挙げられるのも、「私が指導したときには悪い癖が染み付いて修正が効かなかった(タイソンが重要な試合を落とすのは私のせいじゃない)」と嘆いていたように、「育てた」というのは全く当てはまりません。タイソンを「育てた」というなら、その悪癖を染み付かせてしまったケビン・ルーニーらです。

今回のロブレスは、指導歴6年といいますからナチョが「育てた」と言えるでしょう。

ナチョが指導した選手を見渡すと、マルケス兄やヒルベルト・ローマン、リカルド・ロペスに代表される攻防兼備のボクサーから、ビクトル・ラバナレスやマルケス弟、レイ・バルガスのような乱闘型のファイターまで、一貫性がないように思えます。

ボクシングへの取り組み姿勢・規律(disciplin)にしても、サラゴサやロペスのようなプロフェッショナルから、ラバナレスのような劣等生まで、さまざまな生徒が混在しています。

ナチョに限らず、「育てた」選手と「短期講習的な指導」の選手が混在しているので、一貫性がないのは当然です。

それでも、ナチョが手がけた全ての選手に垣間見えるのは、アッパーカットをキーパンチとする滑らかなコンビネーション。



1939年7月31日生まれ、84歳のナチョが30人目の世界チャンピオンのコーナーに陣取る日が来るでしょうか?

そして、それは〝目利き〟の帝拳が厳選したロブレスである可能性も、ほんの少しはあるのでしょうか?



天心vsロブレスの試合までに終わりそうもない「ナチョ・ベリスタインの生き様」、もう少しお付き合い下さいませ。
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那須川天心がキャリア3戦目で初めて挑む世界ランカー、ルイス・ロブレス。

もちろん、ESPNやリング誌などまともなランキングには名前の見当たらない、アルファベット団体のデタラメランキングの14位。

ロブレスの戦績は17戦15勝2敗、15の勝ち星のうちKOは5つとKO率は30%を切り、安全保障書が発行されています。

そんな25歳のメキシカンを「ロブレスはテクニシャン。カウンターパンチの点でローマンに似ているところがある」と評価するのはトレーナーのイグナシオ・ナチョ・ベリスタイン。
試合前に教え子の悪口を言うトレーナーなんてまずいませんが、ヒルベルト・ローマンと似ているとは大きな風呂敷を広げたもんです。



…またまた始まった新たなシリーズは、13年ぶりの来日となったナチョの物語です。
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明日、WBOバンタム級王者ジェイソン・モロニーに挑戦するサウル・サンチェス。

22戦20勝12KO2敗のサンチェスが直近で敗北したのは、2022年6月17日のイーロス・コレアとのバンタム級10回戦。

現在、ジュニアフェザー級で戦うコレアは31歳。昨年11月4日にロビン・エリスを下すまでの戦績は14勝9KO1敗。

サンチェスの世界挑戦を知っていたなら「なんで俺じゃないんだ?」と、イラついているかもしれません。

そして、そのコレアが唯一の敗北を喫したのが2021年10月22日のカツマ・アキツギとの一戦。



カツマ・アキツギ…。和歌山生まれ、カリフォルニア州ハリウッド在住の25歳の戦績は10戦全勝1KO。

スティーブン・フルトンの宣伝文句を借りると、これまで無敗のファイター4人に土を付けてきました。

その中でも2021年10月22日に迎えた21歳のグレゴリー・モラレスは、13戦全勝8KOのホープ。

舞台はテキサス州サンアントニオ、アラモドーム、ライアン・ガルシアがメインに登場するゴールデンボーイ・プロモーションズ(GBP)が主催するビッグイベントのアンダーカードでした。

GBPがスター候補と目をかけたモラレスはメキシコ生まれのサンアントニオ在住、カツマは完全アウエーのリングに上がりました。

結果はジャッジの1人がフルマークをつける3−0の完勝。

リングサイドから日本語の指示が飛んでる気もしたのですが、勝利者インタビューでは流暢な英語とスペイン語で答えていたそうです。3ヶ国語を操れるのでしょうか?

サウスポーのEl Cuete Japonecito(童顔の日本人)がプロ5年間10試合で稼いだファイトマネーは、$12,500(1ドル150円計算で187万5000円)。何とも厳しい金額ですが、本業は別に持っているはず。

彼もサンチェスの世界挑戦には「なんで、俺じゃないんだ?」と思っているかもしれません。

このまま無敗をキープして、いつか日本で世界戦にたどり着いたら、感動的なジャパニーズドリームになります。
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大好きな野球をやめるためにプロに行く。



全く無名のまま高校時代を終えた掛布雅之は、自分の実力がわかっていました。 

それでも、それなのに、野球が大好きだという思いを抑えきれませんでした。

プロで全身全霊を打ち込んで、それでもダメなら野球をやめることができる。それしか、この思いを断ち切ることはできない。

掛布は、野球に対する思いを〝介錯〟してもらいたかったのです。

その〝死に場所〟として、最もレベルの高いプロは格好の舞台でした。

当たって砕けるのにこれ以上の舞台はありません。ここで介錯してもらえたなら、もう何の未練も残さず、ひとカケラの未練も残さず、「野球をやめる」という目的を完遂することができるのですから。

もちろん、大好きな野球です。

むざむざ砕けるつもりなど、さらさらありませんでした。最後の瞬間まで、全身全霊で野球に打ち込み、思い切り悪あがきをしてやるつもりでした。

伝説とは〝素晴らしき虚構〟のモザイクです。

掛布が入団時に与えられた背番号は「31」。「長嶋(3)と王(1)を足したような偉大な選手になって欲しい」という想いが込められたーーーなんていう都市伝説は事実ではありません。

コネでドラフト6位に潜り込んだ無名の高校生にそんな大それた夢が託されるわけもなく、退団した外国人ウィリー・カークランドが付けていた背番号を回されたというのが事実でした。

二軍から這い上がる。そう決意していましたが野球の女神は掛布の一途な思いに惚れ込んでしまったようです。

「速い球を投げる、ホームランを打つ、足が速い、というのは持って生まれた素質。でも、守備は練習で上達する」。そんなことが今以上に信じられていた時代です。

身長170㎝に満たない全く無名の高校生の使い道があるとしたら、内野の守備固めです。

キャンプから厳しい守備練習に明け暮れてフィールディングに磨きをかけた掛布は、一軍選手の故障や出遅れなどから、掛布は三塁と遊撃でオープン戦出場の機会を得ます。

高卒1年目の三塁と遊撃。村上宗隆や根尾昂を見るまでもなく、プロの壁がどれほど高いかを知るのに、これほど格好のポジションはありません。

実際に、開幕段階で掛布の守備は「猛練習で捕球とスローイングは安定していたけど、守備範囲は狭くプロの水準には達していなかった」と見られていました。つまり、守備固めでは使えないレベルだったのです。

それなのに、一軍に帯同してオープン戦に出場、見事に開幕一軍を勝ち獲るのです。

コネ入団で掛布を推した安藤統男がこの年から一軍内野守備コーチに就き「あいつの守備には華がある」と周囲に宣伝したことも影響したのかもしれません。

非常に興味深いことが二つあります。

一つは、掛布の父親と仲が良かった安藤の言葉に、金田正泰監督やコーチ陣も異論を唱えていないということ。掛布の守備を見た誰もが「一軍レベルではないが、華がある」と感じてしまうのでした。

そして、二つ目は無名の高卒ルーキーには全く期待していなかった打撃で、オープン戦ながら18打数8安打と傑出した数字を残していたことでした。



シーズン開幕後も掛布に期待されていたのは守備。

試合前の練習、特に練習時間が短いビジター、掛布は打席に立つことがほとんど許されず、1時間ひたすらノックを受け続けました。

練習が終わったとき、ユニフォームは泥だらけ。「取り立てて上手くない高卒ルーキーを一軍に帯同させて試合前にノックの嵐を降らせる…タイガースは何を考えているんだ?」。

相手チームからも送られる奇異な視線は、シーズンが進むにつれて徐々に変わっていきます。「あの31番の守備、上手くはないけどよく見ると変な空気がある」「いや、すごいスピードで上達してる」。

掛布のライバルはドラフト1位指名された中央大学の佐野仙好。野球への思いをプロで介錯してもらいたい、その強烈な思いに「佐野に負けたくない」というライバル心も点火されました。

ルーキーイヤーの掛布は、出場83試合で打率2割3厘、3本塁打16打点。そして、期待された三塁守備は華があるだけでなく、プロでも十分なレベルに到達していました。

そして、2年目のシーズン。新監督に就任した吉田義男は「守備から固める」と方針を打ち出し「守備はじっくり見ないとわからない」と語りながらも、掛布については「技術的にはまだまだやけど、なにか面白いですな、あの子」と、変な空気、つまりオーラを感じ取っていました。

それは、ファンも同じ。1年前は名前も知らなかった高卒ルーキーの守備に酔い、そしてプロの専門家が見抜けなかった打撃にまでオーラを感じ取っていたのです。

打席に入る雰囲気、一つひとつの所作、それはオーラと表現するだけでは何かが足りませんでした。

妙な色気があったのです。

誰がどう見ても美男子の類ではない掛布が若い女性の嬌声を集める「なにわの七不思議」は、実際に掛布の打席を1度見れば誰でも理解できたはずです。

当時の主砲、田淵幸一のようにドラ1で最初から期待通りの輝きを放ったわけではありませんでしたが、掛布はプロ入り前こそ全く無名だったものの、やはり最初から輝きを放っていたのです。


2年目は出場106試合、2割4分6厘、11本塁打29打点。1年目を上回り、佐野とのポジション争いにも勝ち、球宴後「サード掛布」は不動のレギュラーになりました。

この頃、阪神タイガースは今のようなレベルの人気球団ではありませんでした。プロ野球といえば読売という時代です。

「大阪では読売ファンは肩身が狭い」というのは大嘘で、タイガースと読売は半々と言い切って良い、読売は阪急や南海よりもはるかに人気がありました。

ジャイアンツのパジャマを着て寝ていた清原和博は決してレアな子供ではなかったのです。

そして、1985年に完成する、今に続くタイガース人気は単体では成立しない、つまり読売ジャイアンツのカウンターカルチャーとしてのムーブメントでした。

札幌や仙台、名古屋、広島、博多…日本のどの大都市も東京に迎合する中で、牙を剥き出しにする大阪の気質は特別な存在です。

ジャイアンツに直接牙を剥くことができる、唯一の関西球団が特殊な人気を醸成させてゆくのは自然の成り行きでした。

大阪人が東京に向ける憧憬や嫉妬や憎悪を、差し障りのない形で思い切り表現できる、そのお神輿が阪神タイガースなのです。

そして、その対立構造はチームとしてだけでなく、「村山実vs長嶋茂雄」「江夏豊vs王貞治」「田淵幸一vs堀内恒夫」という個の戦いでも受け継がれてきました。

国民的英雄だったON、特に長嶋は熱狂的なトラキチ、アンチ読売でも好きなファンは多く、堀内のインパクトも強烈とは言い難いものでした。



そして、ジャイアンツの憎たらしい超エリートを、タイガースの這い上がりの4番が打ち崩す。そんな絵に描いたような東西対決が、これ以上ない形で実現します。

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掛布と同じ1955年5月生まれの江川卓は、動画や記録が正確に残る時代になってからの近代野球において、最も伝説にあふれた投手でしょう。

「高校時代が一番速かった」「明らかにボールが打者の手元でホップする」「中腰に構える(打席からもその雰囲気は察知できる)捕手の高めのボール球をプロの打者が振る」…。

あらゆるスポーツで初めて「怪物」と呼ばれたのが江川でした。

松坂大輔は「平成の」、佐々木朗希は「令和の」の枕詞を付けなければなりませんから、江川は〝怪物の永久欠番〟と言えるでしょう。

「江川なんて、そりゃ誰でも知ってましたよ。高校野球の関係者だけじゃない、日本中の誰もが知ってましたよ。高校野球の関係者でも知らなかった僕とは全く違う、同い年だけど雲の上の人」と掛布は笑いますが、江川もまた高校時代から掛布を知っていました。

千葉の習志野と栃木の作新学院、関東の強豪校は練習試合で交流がありました。江川は打者・掛布を「雰囲気がある」と意識していましたが、江川が投げる前に死球を受けて掛布が交代するなど、対戦の縁がありませんでした。


初対決はプロになってから、1979年7月7日、後楽園球場。

両者の立場は、高校時代から考えられないほど逆転していました。

江川は日本スポーツ史上最悪のヒールに貶められてのルーキーイヤー、6年目の掛布は前年に3割1分8厘、32本塁打、102打点と阪神の主砲ではなく球界を代表するスラッガーに成長していたのです。

前年のオールスターゲームで3打席連続ホームランを放った掛布に、江川は「あの掛布が」という思いと「やっぱり」という思いで見ていました。


初対決は、二人にとって悔いの残る苦いものになります。

掛布が初球のカーブを振り抜くと、ライトスタンドに突き刺さるホームラン。

のちに江川は「タイムスリップできるなら、捕手のサインに首を振ってストレートを投げたい」と、後悔を語っています。

「どうしてあんなカーブを投げてしまったのだろう」。

一方で、ホームランを放った掛布もまた「高校時代に江川のストレートを見ていたらトラウマになっていたかもしれない」と思っていたほどのストレートを待たなかったことに後悔していました。

「どうしてあんなカーブを打ってしまったんだろう」。

そして、江川が「わかっていても絶対に打たれない」と絶対の自信を持っていたインハイのストレートだけを、掛布は狙い続けるようになります。

掛布は「アイコンタクトでここでインハイ行くからな、とはっきり伝えてくる」と、江川との勝負を振り返っています。

打者が待ち構えているボールをアイコンタクトで教えて投げ込む。どう考えても投手不利で、それ以前にチームの勝利を優先しない、スポーツの原理原則を無視したエゴ丸出しの行為です。

勝利だけを希求する大谷翔平ら、現代のアスリートには想像できないかもしれません。

しかし、掛布vs江川がストレートにだけこだわる〝勝負〟ではなく、勝利優先のゲームであったなら、ファンはあそこまで熱狂したでしょうか?


ファンを楽しませることがプロスポーツで最優先すべき原理原則だとしたら…。

掛布と江川はやはり最高級のプロフェッショナルだったのです。
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「運がある」。

ものすごく不思議な言葉です。



モハメド・アリや、マニー・パッキャオはあまりにも運が良すぎます。

何がどうなったら、あれほど多くの強豪と拳を交える事ができるのでしょうか?

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銀座のこのビルも途轍もない幸運に恵まれた建物です。

あれほどの空爆を受けて、あたり一面焼け野原になったのに、どうしてこのビルだけが全くの無傷だったのでしょうか?



ーーー初めて掛布雅之を見たのは、小学生の頃でした。

甲子園。おそらく読売戦だったはずですが、正確には覚えていません。

プロです、試合前の守備練習を見るだけでも素晴らしい体験です。内野手は全員が魔法使いに見えました。

その中でも、サード掛布は10歳にも満たない小学生でも感じることができるそのオーラを発散していたのです。その輝きが眩し過ぎて、対戦チームの記憶がおぼろげです。

そんなオーラを、プロのスカウトにわからないはずがありません。

高校時代の掛布は周囲に埋没していた存在だったのでしょう、1974年のドラフトで6位指名を受けた全く無名の掛布は、その実〝コネ入団〟でした。

千葉・習志野高校では2年時に四番ショートで甲子園に出場しますが、1回戦敗退。3年夏は県予選で脱落。

そんな高校生でも、村上宗隆のようにスカウトの眼にとまる才能もありますが、掛布はそうではありませんでした。

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「運がある」。

ものすごく不思議な言葉です。




ドラフトを目前にした高3の秋に、千葉で高校野球の監督を務めたこともある父親が知人を通じて阪神の二軍練習に参加するチャンスを与えられます。

1週間の練習で、球団から「ドラフト最下位(6位)で指名する」と約束してもらったのは、「コネで練習に参加させた子を入団させないわけにはいかない」という忖度でしかなく、「どうせ1年でクビ」と考えられていました。

「高校でほとんど実績がない、何より身長168㎝。プロで大成するには体が小さすぎる」無名の小さな高校生が生き残れるわけがない…真っ当で常識的な見立てです。

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三越のキャラクターもライオンじゃなくタイガーなら良かったのに…現在、消防士の格好させられてます。


私は全盛期の長嶋茂雄を知りませんが、ミスターがプロ入り前から圧倒的なオーラをまとっていたことは間違いありません。

一方で、ミスター・タイガースのそれはプロ入りしてから醸成された、後天的なオーラであることも明らかでした。



全ての新人選手は、大きな夢を描いてプロの門をくぐります。

プロで活躍して、少しでも長く野球をやりたい、と。しかし、掛布は違いました。全く逆でした。



「僕がプロに入ったのは野球をやるためじゃなく、やめるためだった」。(読売新聞「憧球」)



体格も含めて、自分に素質がないことはわかっている。それでも、野球が大好きで、どうしようもなく好きで好きでたまらない。

父親はその灼熱の思いがわかっていたから、頭を下げて、必死でコネを探したのでしょう。



大学や社会人で野球を続ける道もあったかもしれませんが、掛布は体の芯から納得できる形で、大好きな野球をやめたかったのです。

そのためには、プロの巨大すぎる壁に跳ね返されて、クビになるのが、一番わかりやすい形でした。

全部やり切った、なんの後悔もない。それでも通用しなかったーーーそれなら納得できます。


掛布は、残酷なまでに正しい選択をしたのです。


大学や社会人で野球をやっていたら「もっとできたんじゃないか?もしかしたらプロでも?」という、勘違いや未練を引きずったかもしれません。


プロは、そんな生ぬるい勘違いができる世界ではありませんでした。

見たこともないパワーとスピード、そして技術に圧倒されてしまいます。

「自分なんかが来てはいけない世界」。そう思う一方で「なんてラッキーなんだ」と、全身全霊で練習に打ち込みました。



「これで野球をやめることができる」。

「ここで死に物狂いで頑張って、それでダメなら、納得して野球をやめることができる」。




不思議なことが、また起きます。

〝コネ〟でプロ入りした無名の高校生に、また幸運の女神が微笑むのです。幸運の女神はコネなんて大嫌いなはずなのに。



「運がある」。

ものすごく不思議な言葉です。



それにしても…運、ってなんですか?

マニー・パッキャオの前には、層が薄くビッグネームなどいないはずの軽量級でメキシカンのスター選手が3人も立ちはだかってくれました。

軽量級では、ありえない話です。

メキシカンのスターなんて贅沢は言わないのに、強豪王者との対戦もすれ違いの井上尚弥にほんの少しでいいから、分けて欲しい幸運です。

井上があと少し、ジュニアバンタム級にとどまっていたら、何人ものPFPファイターと戦うことができたのに、現実には今なお、たったの一人も巡り会うことができていません。悲しいほどの不運です。運が悪いにも程度があります。




「運がある」。

ものすごく不思議な言葉です。




「運」を井上の場合で英訳すると、そのままUnluckyです。

しかし、アリやパッキャオ、和光ビル、掛布雅之の場合、「運」はLuckyではなくDestinyと英訳すべき日本語です。

アリやパッキャオ、和光ビル、掛布雅之はLuckyだったのではありません。

Destinyを背負っていたのです。

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