ジュニアフェザー級を完全統一、多くのメディアでPFPトップを争い、2023年のSugar Ray Robinson Awardにも選出された井上尚弥。

122ポンドではまだ2試合しかリングに上がっていない井上ですが、その輝きは日本史上最高と断言して差し支えないでしょう。

しかし、モンスターの輝きとは別種類の、強烈な個性を放つファイターが、このクラスを彩ってきたことも忘れてはなりません。

Weight-¥のコピー



横田広明もそんな122パウンダーの1人でした。

1961年10月19日、千葉県銚子市生まれ。1979年、17歳で「負けたら引退」とプロデビューも、その年の4戦目で敗北。有言実行で引退。

その後、横田は就職。社会人としてのキャリアを歩みます。

ところが、何を思ったか1987年、8年ものブランクからリング復帰。日本レベルではトップ戦線を守りながら、1990年10月8日、日本ジュニアフェザー級王者・西條学を8ラウンドKOの大番狂せで戴冠します。

日本ジュニアフェザー級王者・横田広明は、アートネイチャー池袋東支店のブロック長として、忙しく働く二刀流でした。

1993年には32歳にして世界初挑戦のチャンスが巡ってきます。

「長期休暇をとって試合に備えろ」という会社の上司の声を横田は「感謝しますが、このスタイルでここまできました。仕事をおろそかにしたくありません」と断り、いつも通りの生活で大勝負に挑みました。

5時半起床、8kmのロードワークと筋トレをこなしてから出勤。ジムワークは夜7時半からでしたが、残業や会議がある場合は会社に戻りました。



しかし、相手が悪すぎました。王者は階級最強の呼び声高い強打のウィルフレド・バスケスです。11月18日、後楽園ホール。下馬評は「圧倒的不利ではなく絶望的不利」。

「初回で倒されたら事故だと思ってください」。試合が決まってから横田が口にした言葉は、冗談でも弱気でもなかったことは、この試合内容と、バスケスの戦いぶりを考えると非常に納得のいくことでした。

33歳の2階級制覇王者は、強打のプレッシャーで序盤で主導権を握うのが勝利の方程式。葛西裕一と渡辺雄二はこの波に飲まれてしまうことになるのですが、「序盤で勢いつかせてはいけない」というバスケス対策をよく理解していたのかもしれません。

サウスポーの横田は右回りが定石ですが、左へのステップを多用してバスケスの強打を空転させます。

前半4ラウンドは上場の滑り出しでしたが、第5ラウンド。横田の右アッパーにバスケスが右のショートフックをカウンター。ダウンした横田は、不用意なパンチを後悔しますが、ダメージは深い。

ダメージから足が思うように動かない挑戦者は、幻惑のステップを捨てて、バスケスとの打撃戦に突入。このBプランも想定内だったはずです。世界的な強打者相手に互角の撃ち合いを展開します。

第9ラウンドに、バスケスがローブローで減点。ホームタウンとの合わせ技で、この減点が勝負のあやになるかもしれない…12ラウンド36分間戦った採点は112-116*2/113−115のユナニマスでバスケスが防衛。

王者の「カネ次第で再戦に応じる」という言葉は、苦戦を認めたようにも聞こえました。

しかし、2度目のチャンスが訪れることはなく、2007年6月15日の試合を最後に横田はキャリアを終えてしまいます。

2007年…。そうです。バスケス戦からなんと14年後のことです。

この14年間でも横田は引退と復帰を繰り返し、JBCが禁じていたジムの代表と選手の二刀流を事実上実現(海外ではカネロ・アルバレスやフロイド・メイウェザー、マニー・パッキャオ、オスカー・デラホーヤらいくらでもいます)、37歳定年ルールも改訂させ46歳までリングに上がりました。




私がプロボクシングに興味を抱いた頃の日本ジュニアフェザー級王者の系譜は、六車卓也(第15代)、マーク堀越(第16代)、高橋ナオト(第17代、西條学(第18代)…そして第19代日本ジュニアフェザー級王者・横田広明。そして、横田が返上した空位の王座を決定戦で獲得したのが、日本ボクシング界の生きる伝説、長野ハルが「大場(政夫)君に似ている」と惚れ込んだ葛西裕一でした。