1990年7月29日、茨城県水戸市民体育館。
7000人が詰めかけた会場には野太い太鼓のリズムに合わせて「らっせーらー、らっせらー」と、日本で最も有名な夏祭りの掛け声が大きなアリーナを揺らすほどに轟いていました。
その掛け声が響くのは、水戸からたっぷり500kmも離れた青森の夏祭りのはずで、水戸とは縁もゆかりも無いというのに…。
昭和39年1月25日、青森生まれ。
両親も「手のかからない、我慢強い子だった」と回想しています。
彼のどこまでも静かな佇まいは、幼い頃からの我慢強さの裏返しでした。
胸の奥の奥、ずっと奥の方にマグマのような情熱を煮えたぎらせていなければ、到底つとめることなど出来っこない職業を全うしたのですから。
「教室でもいるのかいないのかわからないのに、妙な存在感があった」と、当時のクラスメイトが振り返る少年は、進学した青森商業でボクシングと出会います。
怪我をすることを心配した母親は必死に止めるよう諭しますが、今まで一度も親の言うことに反抗することのなかった少年は譲りません。「あの子が自分を主張したのはあれが最初で最後でした」。
放課後、体育館にリングを設営、その周りにサンドバッグをいくつも吊るした〝即席ジム〟には50〜60人もの部員が集まったそうです。
当時もボクシング人気の凋落、ジムの閉鎖やボクシング部の廃部が深刻化していましたが、それでも今よりもずっとマシな状況でした。
もちろん、彼は喧嘩好きの不良ではありません。しかし、過酷な減量にリングの上での厳しい戦いにジッと耐え抜く才能は、生まれながらに持ち合わせていました。
右フックがオープン気味になる癖があった16歳は、それが原因で反則負けを喫してしまいます。顧問の白崎文雄先生の「サウスポーで打ってみろ」というアドバイスでコンバート、わずか2ヶ月後の春季大会で優勝するのです。まだ2年生になる前のことでした。
ボクシングをやったことがない人でも、軽くシャドーの真似事をしたら自分の利き手・スタンスがすぐにわかるでしょう。そして、その逆がどれほど違和感があって、ぎこちなくなるのかも。
ましてや、ある程度以上の鍛錬を積んで完成させてしまったオーソドックスをサウスポーにする作業は、2ヶ月やそこらでどうこうなるものではありません。
「びっくりしましたよ、あんな短期間で。天才だっていう人も多かったけど、才能だけで出来ることじゃない。言われたことを文句ひとつ口にしないで黙々とこなす、そういう性格だから出来たんでしょう」(白崎)。
もちろん、才能もあったでしょう。しかし、それ以上に、彼がうまくいかなくても我慢強く何度も何度も基本練習を繰り返したのは、想像するまでもありません。
それからは、東北では無敵。
3年時にはインターハイ制覇が期待されますが、決勝で沖縄の新垣諭に敗れて準優勝。
そして、法政大学にスカウトされて上京。ところが、まだ1年生のときに部員が起こした暴力事件でボクシング部は休部に。
行き場を失ったコンバーテッド・サウスポーの前に現れたのが、同郷の国際ジムの高橋美徳会長でした。
誘われるままに、1983年5月24日プロデビュー。
高橋会長が選手の寮がわりにしていた借り上げアパートを見回りに行くと、玄関の靴が減っていることがよくありました。
華やかな東京で、先の見えない厳しいボクサー生活。仕事を無断欠勤、寮を抜け出す。若者たちが逃げ出すのも無理はありません。
それでも、大声を上げてはしゃぐこともなく、仕事をしながら黙々と練習を続けるその青年の靴は、いつも玄関にありました。
「あいつが逃げるわけがない。そう思ってても、玄関に靴があるとホッとしたもんです」。
青年は大手ジムのホープを打ち破ってジュニアフライ級で東日本、全日本と新人王を獲得しますが、減量苦が祟って10回戦に上がる頃には3つの黒星を喫しています。
しかし、フライ級に上げると再び連勝街道を走り出し、日本タイトルを獲得、4連続防衛したところで1989年3月5日、WBC王者・金容江に挑戦。このときは、3人のジャッジともに113−115で世界には届かず。
それでも、復帰戦から3戦全勝3KOでWBA1位となり、翌年の水戸市民体育館につなげるのです。
典型的なコリアン・ファイター、李烈雨の前半の攻勢を我慢しながら耐えた指名挑戦者は、後半からジリジリと挽回、王者を削っていきます。迎えた第10ラウンド、ロープに追い詰めてショートの連打をまとめると3つ年下23歳の韓国人はついに崩れ落ちました。
極寒の青森の真冬に生まれた世界チャンピオンは「青森の冬はイヤですよ、寒いから。でも、帰りたくなるんです」と、はにかんだように静かに笑う。
青森県で、無口な青年が世界王者になった試合を見た一人の少年がボクシングというスポーツにインスパイアされます。
その少年は社交的でとにかく明るく、津軽の暗さは微塵もありませんでした。まさにルパン三世のように饒舌だったのですが、その容貌はアニメのヒーローとは全く異なるものでした。
畑山隆則です。
7000人が詰めかけた会場には野太い太鼓のリズムに合わせて「らっせーらー、らっせらー」と、日本で最も有名な夏祭りの掛け声が大きなアリーナを揺らすほどに轟いていました。
その掛け声が響くのは、水戸からたっぷり500kmも離れた青森の夏祭りのはずで、水戸とは縁もゆかりも無いというのに…。
…昨日、最寄駅の構内で、ブラスバンド部の中学生たちが大汗かきながら演奏していました。
私が通りがかったとき、鼓膜を揺らしたのは「ルパン三世のテーマ」。
おーとこには
自分の世界があーる
たとえるなら 空をかける
一筋の流れ星
ふと思い出したのは、 長身と容貌こそルパンにそっくりながら、饒舌なアニメのヒーローとは違い、全く無口で物静かな男のことでした。
男は天下の大泥棒ではありませんが、やはり天下を目指す職業で、故郷から500km離れた蒸し風呂のような、あの日の水戸で天下を取ったのです。
ルパン三世とのもう一つの共通点を挙げるとしたら、二人のパフォーマンスが視聴率20%に迫る注目を集めたということでしょうか。
しかし、天下を取った、その瞬間ですら男は派手なガッツポーズをするどころか、笑顔すら見せずに崩れ落ちた韓国人を無表情で見つめるだけ。
この大一番のために、特別トレーナーに就いた小熊正二も決して派手な男ではありませんでしたが、そんな彼をもってして「闘志を表に出すことはまずない。わざとカチンとくるようなことを言って挑発しても、何も帰って来ないんですよ」と呆れ果てるほどでした。
ふと思い出したのは、 長身と容貌こそルパンにそっくりながら、饒舌なアニメのヒーローとは違い、全く無口で物静かな男のことでした。
男は天下の大泥棒ではありませんが、やはり天下を目指す職業で、故郷から500km離れた蒸し風呂のような、あの日の水戸で天下を取ったのです。
ルパン三世とのもう一つの共通点を挙げるとしたら、二人のパフォーマンスが視聴率20%に迫る注目を集めたということでしょうか。
しかし、天下を取った、その瞬間ですら男は派手なガッツポーズをするどころか、笑顔すら見せずに崩れ落ちた韓国人を無表情で見つめるだけ。
この大一番のために、特別トレーナーに就いた小熊正二も決して派手な男ではありませんでしたが、そんな彼をもってして「闘志を表に出すことはまずない。わざとカチンとくるようなことを言って挑発しても、何も帰って来ないんですよ」と呆れ果てるほどでした。
昭和39年1月25日、青森生まれ。
両親も「手のかからない、我慢強い子だった」と回想しています。
彼のどこまでも静かな佇まいは、幼い頃からの我慢強さの裏返しでした。
胸の奥の奥、ずっと奥の方にマグマのような情熱を煮えたぎらせていなければ、到底つとめることなど出来っこない職業を全うしたのですから。
「教室でもいるのかいないのかわからないのに、妙な存在感があった」と、当時のクラスメイトが振り返る少年は、進学した青森商業でボクシングと出会います。
怪我をすることを心配した母親は必死に止めるよう諭しますが、今まで一度も親の言うことに反抗することのなかった少年は譲りません。「あの子が自分を主張したのはあれが最初で最後でした」。
放課後、体育館にリングを設営、その周りにサンドバッグをいくつも吊るした〝即席ジム〟には50〜60人もの部員が集まったそうです。
当時もボクシング人気の凋落、ジムの閉鎖やボクシング部の廃部が深刻化していましたが、それでも今よりもずっとマシな状況でした。
もちろん、彼は喧嘩好きの不良ではありません。しかし、過酷な減量にリングの上での厳しい戦いにジッと耐え抜く才能は、生まれながらに持ち合わせていました。
右フックがオープン気味になる癖があった16歳は、それが原因で反則負けを喫してしまいます。顧問の白崎文雄先生の「サウスポーで打ってみろ」というアドバイスでコンバート、わずか2ヶ月後の春季大会で優勝するのです。まだ2年生になる前のことでした。
ボクシングをやったことがない人でも、軽くシャドーの真似事をしたら自分の利き手・スタンスがすぐにわかるでしょう。そして、その逆がどれほど違和感があって、ぎこちなくなるのかも。
ましてや、ある程度以上の鍛錬を積んで完成させてしまったオーソドックスをサウスポーにする作業は、2ヶ月やそこらでどうこうなるものではありません。
「びっくりしましたよ、あんな短期間で。天才だっていう人も多かったけど、才能だけで出来ることじゃない。言われたことを文句ひとつ口にしないで黙々とこなす、そういう性格だから出来たんでしょう」(白崎)。
もちろん、才能もあったでしょう。しかし、それ以上に、彼がうまくいかなくても我慢強く何度も何度も基本練習を繰り返したのは、想像するまでもありません。
それからは、東北では無敵。
3年時にはインターハイ制覇が期待されますが、決勝で沖縄の新垣諭に敗れて準優勝。
そして、法政大学にスカウトされて上京。ところが、まだ1年生のときに部員が起こした暴力事件でボクシング部は休部に。
行き場を失ったコンバーテッド・サウスポーの前に現れたのが、同郷の国際ジムの高橋美徳会長でした。
誘われるままに、1983年5月24日プロデビュー。
高橋会長が選手の寮がわりにしていた借り上げアパートを見回りに行くと、玄関の靴が減っていることがよくありました。
華やかな東京で、先の見えない厳しいボクサー生活。仕事を無断欠勤、寮を抜け出す。若者たちが逃げ出すのも無理はありません。
それでも、大声を上げてはしゃぐこともなく、仕事をしながら黙々と練習を続けるその青年の靴は、いつも玄関にありました。
「あいつが逃げるわけがない。そう思ってても、玄関に靴があるとホッとしたもんです」。
青年は大手ジムのホープを打ち破ってジュニアフライ級で東日本、全日本と新人王を獲得しますが、減量苦が祟って10回戦に上がる頃には3つの黒星を喫しています。
しかし、フライ級に上げると再び連勝街道を走り出し、日本タイトルを獲得、4連続防衛したところで1989年3月5日、WBC王者・金容江に挑戦。このときは、3人のジャッジともに113−115で世界には届かず。
それでも、復帰戦から3戦全勝3KOでWBA1位となり、翌年の水戸市民体育館につなげるのです。
典型的なコリアン・ファイター、李烈雨の前半の攻勢を我慢しながら耐えた指名挑戦者は、後半からジリジリと挽回、王者を削っていきます。迎えた第10ラウンド、ロープに追い詰めてショートの連打をまとめると3つ年下23歳の韓国人はついに崩れ落ちました。
極寒の青森の真冬に生まれた世界チャンピオンは「青森の冬はイヤですよ、寒いから。でも、帰りたくなるんです」と、はにかんだように静かに笑う。
青森県で、無口な青年が世界王者になった試合を見た一人の少年がボクシングというスポーツにインスパイアされます。
その少年は社交的でとにかく明るく、津軽の暗さは微塵もありませんでした。まさにルパン三世のように饒舌だったのですが、その容貌はアニメのヒーローとは全く異なるものでした。
畑山隆則です。
コメント
コメント一覧 (2)
1回目の世界挑戦で勝った?と思ったけど
僅差の判定負けで、その後連勝して世界
王座に再挑戦してフライ級チャンピオンに
なりましたね。
長身痩躯でアウトボクサーに見えるけど
接近してのショート連打が得意なファイター
でしたね、この頃はボクシングの視聴率も
凄く良かった時代でしたね。
フシ穴の眼
が
しました
李烈雨からのKO奪取は、覚えています。
李選手は、あまりの暑さで脱水症状を起こしてたと聞きました。この試合VHSで録画したはず。
畑中対ペドロ・デシマも有るはずだから、探してみよーっと。
リングネームに名前に豹と熊が入ってる…そりゃ強いよね。
フシ穴の眼
が
しました