「皮膚感覚のある記憶」「体温がわかる記憶」と、そうではない記憶。

誰もが「皮膚感覚のある記憶」が正しいと考えがちです。

個人的にも仕事で、自分流のやり方を一方的に教えてしまいそうになることがあります。相手が納得していない場合は、若い彼らの考え方を尊重して、彼らのやり方を一緒に作るべきなのに。

仕事以外でも、ずっと昔に野球や陸上競技に親しみ、プロボクシングもテレビや会場でよく見ました。米国への短期赴任時にも、テレビはもちろん、会場まで見に行くこともありました。

高校、大学生時代は運動部・体育会つながりで他の部とも交流もあったことから、当時の学生スポーツについても肌感覚の記憶があります。

逆に、肌感覚のない記憶、温度がわからない記憶もあります。物心つく前の記憶は朧げで、それが事実ではなく勝手な思い込みである場合も珍しくありません。

さらに、遡って、自分が生まれる前ともなると、もはや思い出という意味では記憶ですらなくなります。

後から言葉や活字、写真、動画、目や耳から入る情報で知った温度のない「皮膚感覚のない記憶=学習」です。

私にとってボクシングでいうと辰吉丈一郎は「皮膚感覚のある記憶」ですが、具志堅用高は世界タイトル奪取してからの数試合は「皮膚感覚のない記憶=学習」で、それ以降が「皮膚感覚のある記憶」です。

輪島功一や大場政夫は完全に「学習」です。

物心がついたあとの「皮膚感覚のある記憶」は事実ではあっても、それが真実であるとは限りません。

「学習」によってもたらされた「皮膚感覚のない記憶」 の場合、学習の〝教材〟が間違っていると事実ですらなく、もちろん真実でもないということも起こります。間違った言説、狂った宗教を信じる人がそれです。

しかし、正しい〝教材〟で学習した結果身につけた「皮膚感覚のない記憶」の場合は、同時代に生きた温度こそわからないものの、事実であり真実であることが当たり前にあります。

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初の有明アリーナはボクシングではなく、スティングの講演でした…。いつの間にか私の生観戦はコンサート>>>>>>>>ボクシングになっています。 


昨夜は「71歳の大暴れパフォーマンス」を目の当たりにしたあと、泥酔。まだ、酔っ払ってる起き抜けで何を書いているのか自分でもわからなくなっていますが、今朝の読売新聞朝刊の「あれから〜300勝投手、名監督にあらず」を読んで、いろんな思いが吹き出してきました。

このブログの大きなテーマを象徴する「野茂英雄」を語るのに必要不可欠の人物であり、偉大な選手生活を全うした後に、日本スポーツ史上屈指のヒール、暗黒面に突き落とされた鈴木啓示。

300勝投手、鈴木啓示は間違っていたのか?