11月25日は三島由紀夫の命日だそうです。
自衛隊市ヶ谷駐屯地で衝撃的な割腹自殺をしてから50年。
先週の読売新聞では様々な角度から3回連載、三島の生きた45年の生涯を振り返っていました。
勝手な私見も交えて…。
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自衛隊市ヶ谷駐屯地で衝撃的な割腹自殺をしてから50年。
先週の読売新聞では様々な角度から3回連載、三島の生きた45年の生涯を振り返っていました。
勝手な私見も交えて…。
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①「当時、出版界で週刊誌ブームが起きていた」。
56年に「週刊新潮」、58年に「週刊ベースボール」「週刊大衆」、59年には「週刊少年マガジン」「週刊文春」が相次いで創刊された。
こうした〝新しいメディア〟に積極的に小説やエッセーを書いた三島。
竹内洋・関西大東京センター長は「三島は人々を啓蒙するような知識人のあり方とは違う、大衆の中に自分の姿をさらしてゆく新しい知の形を体現してみせようとした」と分析した。
▶︎この連載では触れられていませんが、寄稿するだけでなく「あしたのジョー」など漫画にも熱中するなど三島はいつも「何か面白いものを探していた」気がします。
映画に出演したり、写真集を出したり…。しかし、それは一方で「今の時代は面白くない」と痛感していた裏返しだったのかもしれません。
小説家・松浦寿輝は、積極的に様々な分野に挑戦する三島の姿を「あふれる才能があっても、自分は作家として偽物という意識があったのかもしれません」と見ている。
▶︎この連載では、やはり語られていませんが三島の弾丸のような〝疾走〟には、川端康成のノーベル文学賞受賞(1968年)が 、重要な引き金になっていたのは間違いありません。
川端と最終選考を争ったのは三島でしたが、NHKなどのドキュメンタリーでは三島が受賞を先輩に譲るという工作がありました。
ノーベル文学賞がいかに腐ってるかは最近のスキャンダルからも明らかです。
三島もノーベル賞が欲しかったのは、様々な著作からも伝わってきます。
平凡出版は現在のマガジンハウスです。東銀座にあります。
②「平凡パンチ」の読者投票で「オール日本ミスターダンディ」に選ばれる。
思想史の研究者で慶応大の片山杜秀教授は「修辞を尽くした原稿からは、競技に命を燃やす選手を楽しんで取材する様子が伝わる。自分の中でもただ書くだけでなく、行動することへの関心が高まる契機になったのではないか」と話す。
▶︎それまでも「ファイティング原田の大ファン」を自認、プロボクシングの試合を観戦、寄稿していましたが、1964年の東京五輪以降、スポーツに関する執筆がさらに増えました。
もし、三島が今も生きていたら…とんでもない〝老害的〟ご意見番になっていたかもしれません。
③「豊饒の海」〜そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。〜
三島の死から50年。日本はより豊かになり、メディア環境もさらに変化した。
今年、博報堂DYメディアパートナーズメディア環境研究所が調査した「メディア別の接触時間」は、スマホなどのデジタルメディアが51.6%で、三島が活躍の舞台とした雑誌の2.7%を大きく引き離している。
死を間近に控えた三島の姿を収めた、篠山紀信撮影の写真集「男の死」は、三島の衝撃的な自決によってお蔵入りとなったが、50年後の今年、米国で刊行された。

日本で50万円(税別)、米国版は55ドル。…大丈夫か日本?
▶︎このブログでも書いてますが、私はリアルタイムで三島を知りません。三島の生き様も「楯の会」も、何から何まで後付けで知ったものです。
中高時代に三島の著作を読みながら、一方でやはりリアルで知らない学生運動に妙な憧れを抱きつつ、日々の生活は一応体育会…私の10代は相当に分裂的でしたが、三島の著作からは衝撃を受けっぱなしでした。
ファイティング原田について書いたり語る明るい三島を読むと、どうして死んだのか、全く理解に苦しみますが「楯の会」での言動などを知ると、最後はあそこしかなかったとも思いました。
もし、今、三島が生きていたら25日で95歳。
誰もが恐れおののく怪老になった三島が井上尚弥を見たら…?
もしかしたら「久しぶりにボクシングの観戦記でも書くか」とラスベガス行きの航空券を求め、MGMグランドで「会場に入れろ!」と一悶着を起こしていそうです。

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