シュガー・レイ・レナードは現代ボクシングを変えました。

「スーパースターは何をしても良い」「承認団体はスーパースターに隷属するしかない」「ボクシングはAサイドが勝つように出来ている」…。

そんなダークサイドだけでなく、中量級が中心となる産業構造に、採点方式の流れまで決定付けました。

それら全てが凝縮された試合が、ロベルト・デュランとの第1戦でした。
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Date/Venue: June 20, 1980/Olympic Stadium, Montreal, Quebec

Titles: WBC welterweight

146 Raymond Baldeyrou144(5)
145 Harry Gibbs144(4)
148 Angelo Poletti 147(10)


3者一致のユナニマスデジションでしたが、スコアはいずれも1点差。

「デュランが明白に勝っていたという現実の試合内容を反映しないスコア」と騒がれた原因の一つに挙げられたのが「10−10のドローと採点するラウンドが多すぎたから」(赤字)。

行き過ぎたラウンドマストシステムに大きく舵を切るキッカケになった試合でもありましたが、皮肉なことに現在は「10−10を付ける勇気がないジャッジが多すぎる」という批判も少なくありません。

モハメド・アリの引退が1年後に迫っていたボクシング界はまさに崖っぷちでした。

クローズドサーキットで高額のチケット料を支払ってでも観たいようなメガファイトは、1976年のアリvsケン・ノートンを最後に息絶えていました。

それ以来のクローズドサーキットを仕掛けたのは「レナードがアリのトーチを受け継ぐ才能だと確信していた」ボブ・アラム。 

そして、デュランを擁するのはドン・キング。
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WHERE IT ALL BEGAN  そうです。ウェルター級黄金時代も、スーパースター唯我独尊も、Four Kingsのラウンドロビンも、全ては1980年6月20日のモントリオール・オリンピックスタジアムから始まったのでした。画像はフィールドをアリーナにして特設リングを組む工事中のスタジアム。

7万7263席をセットアップしたオリンピックスタジアムの入りは、雨天で当日券の売れ行きが鈍かったことに、高額チケットの影響もあり、席を埋めたのは約4万6000人にとどまりました。

しかし、マディソン・スクエア・ガーデンをはじめ全米で310の会場で生中継されたクローズドサーキットの売り上げは上々で、興行規模は3000万ドル(当時の為替で67億円)に膨らみます。

両者のファイトマネー合計は史上最高の650万ドル(約14億5000万円)が最低保障されましたが、実際にはクローズドサーキットの歩合が加算され、レナードの報酬は最終的に700万ドル超え。

ヘビー級以外のクラスが最高報酬を記録するのはボクシング史上初の出来事で、スーパースターのトーチがレナードにリレーされただけでなく、100年も最人気階級に君臨してきたヘビー級がついにその座を明け渡したエポックでもありました。

デュランはプロモーショナルツアーから心理戦を仕掛け、レナードを Brawl (殴り合い)に引っ張り込みました。

モントリオールでは2人は別々のホテルに宿泊していましたが、デュランはレナードの妻ファニタを監視させ、ホテルを出た彼女に車を横付けして「お前の旦那をぶっ倒したら、お前をファックしてやる」と罵ります。

He would have the car drive up next to Juanita and say things like, ‘I f— you after I beat your husband.’ 

「この一件を伝え聞いたレナードは激昂して、誰の言うことも聞かなくなった」(アラム)。

レナードが全幅の信頼を寄せるアンジェロ・ダンディはキャンプ初日から「クロスレンジで戦わなければ100%勝てる」と言い続け、怒り狂うレナードを「これは罠だ。どうしてわからない?あいつが勝つにはインファイトしかない、そしてお前にはあいつを遠くに釘付けにするジャブとスピードがある!」と説得しますが、聞く耳を持ちません。

「罠なら罠でいい。その罠ごとぶっ潰してやる」。

試合中、ダンディはキャンバスを叩き、地団駄を踏み続けます。「何のために8週間もキャンプを張ったんだ!練習した通りに戦え!」。

雨のモントリオール。4年前に金メダルを獲ったモントリオールで、シュガー・レイ・レナードが大番狂わせに敗れてしまいました。
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「クロスレンジでも勝負できると思ったが、デュランに接近するなと誰もが忠告した意味がわかった。より強いファイターが勝ったということだ」。(ファニタの後ろの男性はレナードの妹と婚約関係にあったウィルフレド・ベニテス。


パナマのアリスティデス・ロヨ大統領は、デュランにモントリオールから専用機を用意して母国へ凱旋帰国させます。そして、デュランが帰国した6月23日を国民の祝日に定めるのでした。

「あの試合でレナードはWBCのベルトを失った。しかし、失ったのはそれだけだ。全盛期のマービン・ハグラーでさえデュランとのクロスレンジでの打ち合いを避けた。それをレナードは15ラウンドもやってのけたんだ」(アラム)。

WHERE IT ALL BEGAN .

そうです。全ては、あの雨のモントリオールから始まったのでした。