ストロー級の誕生と黎明期には、新設階級の常で承認団体の腐臭が充満していました。
1987年10月18日、近畿大学記念会館。WBCストロー級王者決定戦。
「ミニフライ」と呼ばれていた新設の最軽量クラスを、WBCは「ストロー」として立ち上げ、日本の井岡弘樹とタイのマイ・トンブリファームがその初代を賭けて争いました。
18歳9ヶ月の井岡が勝てば日本史上最年少にして、具志堅用高に並ぶ最速(プロ9戦目)での世界王者獲得となる注目の一戦。
村上水軍の末裔、井岡は赤井英和に憧れて中学2年生で三和ツダジムの門を叩き、名匠エディ・タウンゼントにその才能を認められます。
8戦目で小野健治から日本ミニフライ級タイトルを奪い、アジアレベルの実力は証明済みの井岡に対してトンブリファームはタイのジュニアフライ級王者でしたが…。
11勝4KO1敗と戦績はなかなかの26歳のタイ人でしたが、キャリア12人の対戦相手のうち5人がデビュー戦、5人がキャリア5戦以下。勝利した11試合11人の相手の勝敗を合算すると6勝8敗。
ちなみにタイのジュニアフライ級王座は決定戦で相手の戦績は1戦1勝、つまりデビュー2戦目でした。
日本とWBC、相思相愛の思惑がデッチ上げた、私たちが何度も目にする〝謎のタイ人〟でした。
試合は井岡がジャッジ二人からフルマークで支持される完勝。
史上最年少&史上最短、記録づくめの世界王者の誕生でした。
井岡の戴冠は、怪しさ満載ながらも、批判的な声はけして多くはありませんでした。
その背景には、初防衛戦で迎える無敗の李敬淵は一定の実力を持つファイターで「井岡の若さと才能を評価するのは李との内容で」という執行猶予付きの王者獲得だったことに加えて、あのエディが「一目惚れした」ということがボクシングファンが軽率な非難を控える免罪符になっていました。
自らの教え子でも「選手を上達させるのが私の仕事。赤井に朝起きてロードワークして下さい、なんてお願いするのは仕事じゃない!」とメディアの前で怒りを露わにするなど、リップサービスや世間体など一切ない職人トレーナーでした。
日本ボクシグ史上最高のトレーナー、73歳になっていたエディは肺と直腸のガンに冒され、過酷な闘病生活を送っていましたが、井岡の記録づくめの戴冠劇には車椅子で指示を飛ばしていました。
そして、審判の日が訪れます。
1988年1月31日、大阪城ホール。井岡には初防衛戦としては破格の2000万円のファイトマネーを獲得しますが、そんな話はどうでもいいことです。
日本を代表する巨大アリーナは1万3500人のフルハウス。
韓国でも軽視されがちだったIBFタイトルを返上した李は「日本人で若く人気のあるWBC王者」との決戦を選びました。
倒せば母国に大きな歓喜をもたらすハイリターンを狙って、360度完全アウエーのリングに、先に上がります。
一方、井岡のロッカールーム。異様な空気の中で、エディが「BOY」と呼ぶ19歳になったばかりの〝少年王者〟は強烈な決意を固めていました。
車椅子でセコンドにつく予定だったエディの容体は悪化の一方で、試合当日に危篤状態になりますが「BOYが勝つまで死なない」と絶対安静を拒否、担架で寝たままセコンドにつくと言い張るのです。
もちろん、そんなことは出来ません。
ロッカールームにエディを残して井岡がリングまでの花道を歩きます。
大歓声はロッカールームの中まで聞こえましたが、エディの呼吸は荒くなり瞳孔が開きます。救急車を呼び大阪市内の病院に73歳の名匠は送り返されてしまいました。
「病院には行かない!リングサイドにに連れて行きなさい!」。意識が戻って、そう激昂されても、無理にでも救急車に乗せる決心だった付き添えでしたが、苦しそうな呼吸を繰り返すだけの偉大なトレーナーの姿を見て涙を流すことしかできません。
「井岡、勝て。絶対に勝て」。
19歳の少年チャンプが迎えた試練の防衛戦と、最期の刻が迫った稀代の名匠。
リングの上で井岡が、病床に伏したエディが、見事に演じきった信じられないドラマを回想します。
1987年10月18日、近畿大学記念会館。WBCストロー級王者決定戦。
「ミニフライ」と呼ばれていた新設の最軽量クラスを、WBCは「ストロー」として立ち上げ、日本の井岡弘樹とタイのマイ・トンブリファームがその初代を賭けて争いました。
18歳9ヶ月の井岡が勝てば日本史上最年少にして、具志堅用高に並ぶ最速(プロ9戦目)での世界王者獲得となる注目の一戦。
村上水軍の末裔、井岡は赤井英和に憧れて中学2年生で三和ツダジムの門を叩き、名匠エディ・タウンゼントにその才能を認められます。
8戦目で小野健治から日本ミニフライ級タイトルを奪い、アジアレベルの実力は証明済みの井岡に対してトンブリファームはタイのジュニアフライ級王者でしたが…。
11勝4KO1敗と戦績はなかなかの26歳のタイ人でしたが、キャリア12人の対戦相手のうち5人がデビュー戦、5人がキャリア5戦以下。勝利した11試合11人の相手の勝敗を合算すると6勝8敗。
ちなみにタイのジュニアフライ級王座は決定戦で相手の戦績は1戦1勝、つまりデビュー2戦目でした。
日本とWBC、相思相愛の思惑がデッチ上げた、私たちが何度も目にする〝謎のタイ人〟でした。
試合は井岡がジャッジ二人からフルマークで支持される完勝。
史上最年少&史上最短、記録づくめの世界王者の誕生でした。
井岡の戴冠は、怪しさ満載ながらも、批判的な声はけして多くはありませんでした。
その背景には、初防衛戦で迎える無敗の李敬淵は一定の実力を持つファイターで「井岡の若さと才能を評価するのは李との内容で」という執行猶予付きの王者獲得だったことに加えて、あのエディが「一目惚れした」ということがボクシングファンが軽率な非難を控える免罪符になっていました。
自らの教え子でも「選手を上達させるのが私の仕事。赤井に朝起きてロードワークして下さい、なんてお願いするのは仕事じゃない!」とメディアの前で怒りを露わにするなど、リップサービスや世間体など一切ない職人トレーナーでした。
日本ボクシグ史上最高のトレーナー、73歳になっていたエディは肺と直腸のガンに冒され、過酷な闘病生活を送っていましたが、井岡の記録づくめの戴冠劇には車椅子で指示を飛ばしていました。
そして、審判の日が訪れます。
1988年1月31日、大阪城ホール。井岡には初防衛戦としては破格の2000万円のファイトマネーを獲得しますが、そんな話はどうでもいいことです。
日本を代表する巨大アリーナは1万3500人のフルハウス。
韓国でも軽視されがちだったIBFタイトルを返上した李は「日本人で若く人気のあるWBC王者」との決戦を選びました。
倒せば母国に大きな歓喜をもたらすハイリターンを狙って、360度完全アウエーのリングに、先に上がります。
一方、井岡のロッカールーム。異様な空気の中で、エディが「BOY」と呼ぶ19歳になったばかりの〝少年王者〟は強烈な決意を固めていました。
車椅子でセコンドにつく予定だったエディの容体は悪化の一方で、試合当日に危篤状態になりますが「BOYが勝つまで死なない」と絶対安静を拒否、担架で寝たままセコンドにつくと言い張るのです。
もちろん、そんなことは出来ません。
ロッカールームにエディを残して井岡がリングまでの花道を歩きます。
大歓声はロッカールームの中まで聞こえましたが、エディの呼吸は荒くなり瞳孔が開きます。救急車を呼び大阪市内の病院に73歳の名匠は送り返されてしまいました。
「病院には行かない!リングサイドにに連れて行きなさい!」。意識が戻って、そう激昂されても、無理にでも救急車に乗せる決心だった付き添えでしたが、苦しそうな呼吸を繰り返すだけの偉大なトレーナーの姿を見て涙を流すことしかできません。
「井岡、勝て。絶対に勝て」。
19歳の少年チャンプが迎えた試練の防衛戦と、最期の刻が迫った稀代の名匠。
リングの上で井岡が、病床に伏したエディが、見事に演じきった信じられないドラマを回想します。

コメント
コメント一覧 (1)
夜分遅くすいません
井岡対季敬淵は事実上の統一戦かと思いましたが、
返上して、井岡に挑んだのですね。
ありがとうございました。
日本初の世界ダブルタイトルマッチ
ソット対決8戦目の神城は、無謀だとおもいました。
あの試合井岡のベストマッチと云うくらいドラマティックでした。
タイのボクシングは、ムエタイがあるので、その延長でボクシングをやっているんでしょう
センサク、ソット、ナパも数戦目でタイトルマッチ
タイのボクシング(ムエタイ)は神秘で、すごく、あやしい~ 世界てす。
フシ穴の眼
が
しました