新興団体IBFの〝アジア布教活動〟の最重要国は当然日本、そして韓国でした。
1987年6月14日、韓国・釜谷ハワイホテル。IBFミニフライ級王者決定戦。
1位の李敬淵が、2位の川上正治をパワフルな猛攻で初回から圧倒、2ラウンドKOで世界初の105ポンド王者になりました。
奈良池田ジム所属の川上の戦績はこの試合前で10戦8勝(6KO)2敗という触れ込みでしたが、BoxRecではこの試合がなんとデビュー戦となっています。
川上の試合は不可解な判定が多いばかりか、劣勢になると試合途中にエキジビジョンに変更されるなどの〝奈良判定〟が目立つ疑惑のオンパレードでした。
一方の李もこの試合で11戦全勝4KOと無敗のレコードを伸ばしましたが、過去10戦の相手の合計の星勘定は デビュー戦の相手3人を除いて1勝7敗1分。唯一、勝利経験のある選手ですら3戦して1勝2敗。
まだ中国が名実ともに発展途上国だった時代、アジアでの日本の存在感は圧倒的で、その日本を追いかける韓国は1988年に五輪開催を控えて経済大国への助走を始めたところでした。
IBFの目の付け所は良かったのですが、JBCの懐柔に失敗したIことで、韓国への集中政策へ舵を取ります。
IBFの目の付け所は良かったのですが、JBCの懐柔に失敗したIことで、韓国への集中政策へ舵を取ります。
IBFが日本へのロビー活動を諦めずに、もっと強烈なカネとヒトを投資してJBCが籠絡されていたら…ゾッとする話です。
1987年6月14日、韓国・釜谷ハワイホテル。IBFミニフライ級王者決定戦。
1位の李敬淵が、2位の川上正治をパワフルな猛攻で初回から圧倒、2ラウンドKOで世界初の105ポンド王者になりました。
奈良池田ジム所属の川上の戦績はこの試合前で10戦8勝(6KO)2敗という触れ込みでしたが、BoxRecではこの試合がなんとデビュー戦となっています。
川上の試合は不可解な判定が多いばかりか、劣勢になると試合途中にエキジビジョンに変更されるなどの〝奈良判定〟が目立つ疑惑のオンパレードでした。
一方の李もこの試合で11戦全勝4KOと無敗のレコードを伸ばしましたが、過去10戦の相手の合計の星勘定は デビュー戦の相手3人を除いて1勝7敗1分。唯一、勝利経験のある選手ですら3戦して1勝2敗。
つまり、勝利経験がある相手はたった1人、それも1勝3敗、ここまで来るともはや喜劇です。
新興団体による新設階級の最軽量級クラス初代王者決定戦は、ボクシグの暗部をこれでもかと凝縮したリングで行われたのでした。
今よりはマシとはいえ、この偽物だらけのボクシング界。
新興団体による新設階級の最軽量級クラス初代王者決定戦は、ボクシグの暗部をこれでもかと凝縮したリングで行われたのでした。
今よりはマシとはいえ、この偽物だらけのボクシング界。
どうしてファンをやめなかったのか?と聞かれたら、正直、答に詰まります。
リングの中には嘘はないですし、二つの拳、それもナックルパートだけを使って優劣を決める、このスポーツの奥深さに嘘はありません。
モハメド・アリの偉大さを否定する人は地球上に一人もいないでしょう。10年前までのマニー・パッキャオの躍動と挑戦にわくわくしないスポーツファンはいないでしょう。
リング誌をはじめとした秀悦なジャーナリズムに、ボクシングを題材にした小説や映画、音楽は他のスポーツとは比較にならないほど奥深い愉悦を与えてくれてきました。
紛い物ばかりじゃないから、逆に始末に負えないのです。
李vs川上みたいな試合ばかりを垂れ流してくれていたら、潔くボクシングから離れることができたのに。
そして、ボクシングの欺瞞を象徴したような105ポンド級の誕生にも、本物がからんでくるから厄介なのです。
日本ボクシング史に残る正真正銘の本物のトレーナー、偉大な名匠が最後の魂を燃やしたのが、105ポンド級でした…。
*******
まだクイーンズベリールールも整備されていない19世紀中盤の1856年、代々医者の裕福な家系にウォルター・デイビス・タウンゼントは生まれました。
しかし、外科医だった父親が夭折すると一家は没落。ウォルターは仕事を求めて横浜の外国人居留地で「アメリカ貿易会社」で商社マンとして働きます。横浜の外国人居留地跡から発掘された赤煉瓦の遺跡。もしかしたらウォルターが住んでいた家屋の一部かもしれません。
ウォルターは支社のある神戸に赴任、そこで恋した女性と子供を設けます。
子供の名前は「ナオジロウ」。母親の姓は井上だったと記録に残っていますが、この子は井上ナオジロウでもナオジロウ・タウンゼントでもなくナオジロウとだけしか記録に出現していないことから、正式に結婚して出来た子供ではなかったと推測されます。
会社は発展、朝鮮との貿易も順調に拡大し、ウォルターは仁川の外国人居留地に転勤します。
ウォルターは朝鮮で独立し、木材やコメ、石油、ウイスキーを扱うだけでなく、銀行・保険業界にも進出、大成功を収めました。
ウォルターはもう一人の日本女性と正式結婚しますが、この継母はナオジロウを疎んじ、ナオジロウは歪んだ少年時代を過ごします。
大金持ちの父親はナオジロウを案じてアメリカンスクールやニューヨークの学校へ進学させましたが、自主退学すると蒸気船の船乗りとなり、寄港先の一つハワイに落ち着きました。
蒸気船の船乗りとしてミッキー・マウスが誕生したのが1928年。それよりずっと前にナオジロウは蒸気船の船乗りになっていたのです。
ハワイで得た仕事は警察の刑事。20世紀初頭、何がどうなったらハワイで刑事になれるのかもはや21世紀の私達には理解できようがありません。
その後、日系女性と結婚、弁護士資格と米国籍も取得したナオジロウはエドワード・タウンゼントと改名しましたが、妻が病死。
再婚した日本人女性との間に生まれた子供には、新しい自分の名前を付けました。
エドワード・タウンゼント・ジュニア(1914年10月4日誕生)です。
1914年です、リング誌創刊の1922年を紀元0年とするこのふざけたブログでは〝紀元前〟のことです。というよりも、社会常識的には第1次世界大戦が勃発した年です。
朝鮮で事業を拡大していたデイビスはナオジロウを探し当て「朝鮮で一緒に暮らそう」と提案しますが、デイビスは急死。
エドワードの妻までが病死してしまい、その妻の妹(当然日本人)と再婚。
ジュニアはまだ3歳。父親と同じように継母に馴染めず、ホノルルでも札付きの不良少年になってしまいます。
少年は学業を放り投げ、ボクシングジムに通うようになります。このジムの経営者がサム一ノ瀬。トレーナーのヤング・ギルドはピストン堀口との対戦経験もあるフィリピン人でした。
家族嫌いのジュニアでしたが、ボクシングには熱中しました。リングは鬱屈した現実から逃避できる唯一の場所でした。
そして、どこから見ても白人の見た目のジュニアでしたが、体を流れていたのは75%が日本人の血でした。
ボクシングと日本人の血。
ジュニアが日本の地を踏むのは、宿命としか表現のしようがありませんでした。
。。。。。。ここまで書いてはっきりしたことは、次回もリカルド・ロペスは出てきません。あしからず。
リングの中には嘘はないですし、二つの拳、それもナックルパートだけを使って優劣を決める、このスポーツの奥深さに嘘はありません。
モハメド・アリの偉大さを否定する人は地球上に一人もいないでしょう。10年前までのマニー・パッキャオの躍動と挑戦にわくわくしないスポーツファンはいないでしょう。
リング誌をはじめとした秀悦なジャーナリズムに、ボクシングを題材にした小説や映画、音楽は他のスポーツとは比較にならないほど奥深い愉悦を与えてくれてきました。
紛い物ばかりじゃないから、逆に始末に負えないのです。
李vs川上みたいな試合ばかりを垂れ流してくれていたら、潔くボクシングから離れることができたのに。
そして、ボクシングの欺瞞を象徴したような105ポンド級の誕生にも、本物がからんでくるから厄介なのです。
日本ボクシング史に残る正真正銘の本物のトレーナー、偉大な名匠が最後の魂を燃やしたのが、105ポンド級でした…。
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まだクイーンズベリールールも整備されていない19世紀中盤の1856年、代々医者の裕福な家系にウォルター・デイビス・タウンゼントは生まれました。
しかし、外科医だった父親が夭折すると一家は没落。ウォルターは仕事を求めて横浜の外国人居留地で「アメリカ貿易会社」で商社マンとして働きます。横浜の外国人居留地跡から発掘された赤煉瓦の遺跡。もしかしたらウォルターが住んでいた家屋の一部かもしれません。
ウォルターは支社のある神戸に赴任、そこで恋した女性と子供を設けます。
子供の名前は「ナオジロウ」。母親の姓は井上だったと記録に残っていますが、この子は井上ナオジロウでもナオジロウ・タウンゼントでもなくナオジロウとだけしか記録に出現していないことから、正式に結婚して出来た子供ではなかったと推測されます。
会社は発展、朝鮮との貿易も順調に拡大し、ウォルターは仁川の外国人居留地に転勤します。
ウォルターは朝鮮で独立し、木材やコメ、石油、ウイスキーを扱うだけでなく、銀行・保険業界にも進出、大成功を収めました。
ウォルターはもう一人の日本女性と正式結婚しますが、この継母はナオジロウを疎んじ、ナオジロウは歪んだ少年時代を過ごします。
大金持ちの父親はナオジロウを案じてアメリカンスクールやニューヨークの学校へ進学させましたが、自主退学すると蒸気船の船乗りとなり、寄港先の一つハワイに落ち着きました。

ハワイで得た仕事は警察の刑事。20世紀初頭、何がどうなったらハワイで刑事になれるのかもはや21世紀の私達には理解できようがありません。
その後、日系女性と結婚、弁護士資格と米国籍も取得したナオジロウはエドワード・タウンゼントと改名しましたが、妻が病死。
再婚した日本人女性との間に生まれた子供には、新しい自分の名前を付けました。
エドワード・タウンゼント・ジュニア(1914年10月4日誕生)です。
1914年です、リング誌創刊の1922年を紀元0年とするこのふざけたブログでは〝紀元前〟のことです。というよりも、社会常識的には第1次世界大戦が勃発した年です。
朝鮮で事業を拡大していたデイビスはナオジロウを探し当て「朝鮮で一緒に暮らそう」と提案しますが、デイビスは急死。
エドワードの妻までが病死してしまい、その妻の妹(当然日本人)と再婚。
ジュニアはまだ3歳。父親と同じように継母に馴染めず、ホノルルでも札付きの不良少年になってしまいます。
少年は学業を放り投げ、ボクシングジムに通うようになります。このジムの経営者がサム一ノ瀬。トレーナーのヤング・ギルドはピストン堀口との対戦経験もあるフィリピン人でした。
家族嫌いのジュニアでしたが、ボクシングには熱中しました。リングは鬱屈した現実から逃避できる唯一の場所でした。
そして、どこから見ても白人の見た目のジュニアでしたが、体を流れていたのは75%が日本人の血でした。
ボクシングと日本人の血。
ジュニアが日本の地を踏むのは、宿命としか表現のしようがありませんでした。
。。。。。。ここまで書いてはっきりしたことは、次回もリカルド・ロペスは出てきません。あしからず。

コメント
コメント一覧 (1)
当時のIBFは、仕方がないとしても、いい加減ですね。
季は、井岡の最強挑戦者だと思っていました。
川上の名は 、?なんだろうとおもっていました。亀田みたいに、移籍組かと思ってました。
エディさんのルーツ複雑ですね。
このブログのテーマの1つ
この人(IBFの王者)は、どこまで強かったのか?
当時は、仕方がないとしても、いえ、ビジネスであるかぎり、いい加減ですね。
フシ穴の眼
が
しました