それにしても、今年の桜は散りません。

日曜日には冷たい雪にまで打たれたというのに。

まだ堂々咲き誇っています。
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さて、1991年2月3日、WBC世界ジュニアフェザー級タイトルマッチ。

王者ペドロ・デシマvs畑中清詞の一戦は、デシマの一方的な展開のまま4ラウンド開始のゴングが鳴りました。

3ラウンドまでのオフィシャルは3者ともに30−26。

名古屋レインボーホールは名古屋港に近い埋立地にあり交通の便が悪いにもかかわらず 、会場には8500人ものファンが詰めかけていました。

リングサイドには北の湖親方も座り、旗色の悪い戦局を静かに見守っていました。

初回にダウンを奪われた畑中に、会場はデジャヴ を見ていだはずです。

2年5ヶ月前にヒルベルト・ローマンに初挑戦したときも、やはり初回にダウンを奪われると、技巧のメキシカンの術中にはめられ完敗を喫していたのです。

しかも、今回の相手は2階級上の強打者。判定では済まない最悪の結末が頭をよぎります。

しかし、畑中の中には冷静と情熱がしっかりと同居していました。

「決定的なダメージはない。デシマのパンチは全部見えてる。タイミングは掴めている」。

「ボクシングを始めて10年、その全てをこの試合に叩きつける」。

畑中の右ショートがデシマの顎にジャストミート!ぐらつく王者を追い詰めて一気のラッシュ。

最初のダウンを奪います。

さらに3度目のダウンを追加すると、フリーノックダウン制だと知らなかった畑中はTKO勝利と勘違いして、リング上でバック転の〝フライング〟。

さらに4度目のダウンを奪いますが、トドメを刺せずに5、6ラウンドは王者がペースを奪い返します。

それでも7ラウンドに畑中は右を起点に5度目のダウンを奪います。デシマは畑中の右が見えていません。

そして8ラウンド。王者が最後の力を振り絞っての猛攻。

今度は左フックで相手の動きを止めた畑中は6度目のダウンを奪います。懸命に立ち上がったデシマでしたが、主審は続行を許さず、ようやくゲームオーバー。
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名古屋から史上初の世界チャンピオンが誕生した瞬間でした。

大橋秀行(WBCストロー)、レパード玉熊(WBAフライ)に続いて畑中。

3人目の世界王者を抱えることになった日本ボクシングは、この年9月に辰吉丈一郎が期待通りのタイトル奪取を果たし新時代に突入することになります。

初防衛戦で畑中はダニエル・サラゴサに惜敗。眼疾を負ったこともあり、リングを去ります。

あれから29年。畑中が豪快にブチ開けた扉をくぐって、薬師寺保栄や田中恒成ら東海から多くの優秀なボクサーが生れ続けているのです。