ボクシングにサイドストーリーなど要らん!と吐いたその舌の根も乾かぬうちから、明日に凱旋試合を控えたモーリス・フッカーの物語です。

日本時間7月28日 テキサス州アーリントン カレッジ・パークセンター

世界ジュニアウェルター級統一戦


「極貧最悪の環境から世界王者へ」。そう聞くと真っ先にマニー・パッキャオを思い浮かべる人がいるかもしれません。

しかし、パッキャオが貧しかったのはせいぜい10代半ばまでのことです。

各地の祭りを転戦した草拳闘で受け取った報酬は2ドルでしたが、15歳でプロデビューしてからはフィリピンの人気ボクシング番組「ブロウ&ブロウ」の看板選手の1人になり、1試合の報酬は1000ドル以上と夜祭りの草拳闘から1000倍近くに増えていました。

パッキャオの「1000倍の出世」はABS−CBNでもドキュメンタリーニュースになり、ボクシングがいかに夢のあるスポーツかをフィリピンの人々は思い知ります。

しかし「1000倍」は準備運動ですらありませんでした。米国を主戦場にすると、どんなマッチメイクをされても二つ返事で快諾、番狂わせの山を築き100万ドルファイターから1000万ドルファイターへ。

そして、1億ドルをメイウェザー戦で獲得するなど誰が想像できたでしょうか。

「プロボクサー」という視点で見た場合、パッキャオを苦労人などとは口が裂けても言えません。

もし、そんなことを口にしたらフッカーは怒り出すでしょう。
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フッカーが生れ育ったダラス・サウスオーククリフの街に大きな壁画が描かれています。「びっくりしたよ。俺はいつの間にかあの街の誇りになってたんだ」。

実はボクサーの種類は、二つしかありせん。

一つは、有力なプロモーターの傘下で最低限の生活か、それ以上が保証される環境と慎重なマッチメイクで世界王者を目指すボクサー。

もう一つは、そうではないボクサーです。ボクシング専業で食っていけるボクサーなど、ほとんどいません。別の仕事をこなしながら、次の試合がいつ組まれるのかもわからない孤独な毎日を送るのです。

そして、その報酬は劣悪。家族や友人知人からは「もうボクシングなんてやめなさい」といつも説得される日々。 

フッカーは間違いなく後者でした。

マネージャーのアーニー・バービークは「本当のプロなんて一握りもいない、それは野球でも同じ。それでもマイナーリーガーはオフに働いた貯金で、半年続くリーグ戦を戦うことができる。 ボクサーは毎日働きながら、次の試合に備えなければならない。しかもチームメイトも監督もいない環境で」と、低報酬だけでなく孤独にも耐えなければならないと語ります。

「それにボクシングは野球よりもはるかに危険。試合で大きな怪我を負うこともあれば、引退してから後遺症が出ることもある。普通に働く方がずっと楽に裕福に暮らせるんだから、生半可な気持ちじゃ続かない」。 

〝後者のボクサー〟が成功する可能性はまずありえません。もし、デラホーヤやメイウェザーら〝前者のボクサー〟がフルタイムで働きながら苛酷なマッチメイクをこなすキャリアだったとしたら、彼らははあの偉業を成し遂げていたでしょうか?

そもそも世界チャンピオンにすらなれずに朽ち果てていたかもしれません。

デラホーヤやメイウェザーの図抜けた才能は誰でもわかっていましたから、ボブ・アラムは2人の前に温室で囲まれた線路を敷いたのです。

しかし、そんなギフトとは無縁のフッカーは、吹きさらしの荒野を進むしかありませんでした。

「それがわかっているから、早く第二の人生をスタートさせてあげたいんだ。私はボクシングを愛している。フッカーも情熱があった。そういう若者が大好きだから、どんなオファーでも受けた。つまり厳しい相手と戦わせたんだ」。




殺人事件の発生率が全米で最も高いダラスでも、フッカーが育ったサウスオーククリフは治安が悪いことで有名な街でした。

「あちこちでドラッグが売買されてたし、街にはその匂いが充満してた。強盗や窃盗、スリ…盗みも空気のように当たり前だった。喧嘩や暴力も毎日、どこでも目にしてた」。

フッカーは暴力が大嫌いでしたが、そんな街で喧嘩に巻き込まれないで生きていくのは息をしないのと同じことでした。

「あの街で暴力から逃れることは不可能だった。養父が護身のためにボクシングを教えてくれたんだ」。

それでも…夜中に銃を持った強盗団に押し入られてはどうすることもできません。

フッカーはこめかみに銃口を突きつけられ、養父は蹴り飛ばされて倒れていました。金目のものを盗られただけで済みましたが、この体験はフッカー少年の心の中に怒りの火を灯しました。

アマチュアではプロで世界王座を奪うことになるテリー・フラナガンや、その王座の防衛戦で勝利するアレックス・サウセドには黒星を付けられてしまいます。フッカーがアマチュアスタイルに向いていないのは明らかでした。

アマチュアで85勝7敗。悪くない星勘定ですが、勝負所ではことごとく敗北。手に入れたのはダラスのゴールデングローブの小さく軽い優勝メダルだけでした。

バービークのダラスのメイプルアベニュー・ボクシングジムの門をくぐったフッカーは「プロになりたい」と真っ直ぐな目で訴えました。

「本気なら厳しいぞ。死に物狂いでやれるか?」。そう聞くバービークにフッカーは力強くうなづきました。そしてバービークは「一つ約束しろ。ダメだったら他の仕事を探せ」 と念を押すことも忘れませんでした。

2011年、21歳のときにプロデビュー。テキサスの小さなパーティルームの薄汚れたリングが彼の職場でした。

最初の3試合のファイトマネーは100ドル。税金とコーナーへの配当を抜かれるとほとんど残りませんでした。

ナイトクラブでもホテルの宴会場でも、彼らは呼ばれたらどこにでも出向きました。報酬も確認せずに。そんな場末の試合でも次にいつ組まれるかわからないのです。

「確かに報酬は100ドルだった。ジムの使用料やマネジメント料なんて引けないよ。フッカーは『心苦しい』と言ってたけど…リングの中では本当に活き活きとしてた。ああ、こいつはボクシングが好きなんだなあって何度も感動したよ」。 

“It never was about the money,” Hooker said, “it was about my dream. To believe in myself.” カネのためじゃなかった。夢のためだった。リングの中では自分を信じることができたんだ。 

「ボクシングが好きなだけだった。夢はあったけど、HBOやショウタイムなんて考えられなかった。そもそも私の試合には地方局のテレビカメラでさえ1台も無かったんだから」。

それでも、スパーリングではエロール・スペンスJr.やロブ・ブラントとも拳を交え、自信を深めていきます。

アマチュアでは芽がでなかったものの、フッカーを一目見たら誰もがボクシングに向いていると感じるでしょう。180㎝の長身に、リーチは驚くなかれ203㎝とヘビー級並みなのです。

トレーナーのビンス・パーラは「最初に見たときはインファイターだったんだ。ストリートファイトに慣れすぎてたのかもね。彼には長い距離をどうやって作るか、どうやってその距離をキープするかを教え込んだ」と笑います。

ボクシング愛の化身バービークと、熱血教師パーラ。そしてフッカーのトロイカが力強く走り始めました。

「磨けば宝石になるかもしれない原石だった。磨くにはトップの技術を目の前で体験するしかない」と信じるパーラはフッカーを連れて、ワイルドカードボクシングクラブに出稽古に向かいます。

叩き上げのレイムンド・ベルトラン、強打のルスラン・プロボドニコフ、そしてミゲール・コット…。

フッカーは「あんなタフなボクサーがいるのか」とベルトランの頑健に驚き、プロボドニコフのパワーに「信じられない」と呆れ果て、コットの完成度に「どうしたらあそこまで辿り着けるか」と戸惑いました。

しかし、パーラは彼らと互角以上に渡り合うフッカーに「宝石だった」と確信します。

しばらくすると、フッカーとのスパーリングを断るボクサーが続出し始めました。

パーラは「世界王者のキャンプにも2度、呼ばれた。私の中のルールに反するから、名前は出さないが2人とも初日のスパーリングで『フッカーはイメージと違う』と私たちを追い出したんだ。彼らが求めていた長身で長い距離を持つボクサーに間違いないけど、フッカーは彼らには強すぎて上手すぎたんだよ」と笑い飛ばします。

世界チャンピオンになったフッカーは今や街の誇りです。

故郷に帰ると、小学校やコミュニティセンターでの講演がひっきりなしに依頼されます。

「犯罪に手を染めて人を傷つけることは絶対にするな」「世の中が悪いと責任転嫁するな」「自分を信じて夢を持て」と諭し、真面目に働いておカネを稼ぐことの大切さを説き、彼らを育ててくれた両親への感謝を忘れるなと語りかけます。

「君たちだって私のように戦える。ボクサーになれと言ってるわけじゃない。夢に向かって努力するんだ。自信を持って突き進むんだ」。

Home. Maurice Hooker returns home as a champion. 

モーリス・フッカーは、泥水をすすりながら戦っていた故郷に帰還したのです。世界チャンピオンとして舞い戻ってきたのです。

残念ながら試合会場は慣れ親しんだナイトクラブでも、宴会場でもありません。

テキサス大学アーリントン校キャンパスの中にある巨大アリーナです。