1980年からスタートしたリング誌の「BEST FIGHTER POLL」(最強ボクサー投票)。

その40年弱の歴史で、延べ17人のボクサーが1位に輝き、満票一致の150点を叩き出したのはマービン・ハグラー(1985年)、ロイ・ジョーンズJr.(1999年)、バーナード・ホプキンス(2004年)、フロイド・メイウェザーJr.(2007年/2013年/2014年)、マニー・パッキャオ(2008年/2010年)の5人だけです。

この5人と拳を交えたことがある日本人は寺尾新(1998年パッキャオ戦:ジュニアバンタム級ノンタイトル10回戦)だけですが、パッキャオが最高評価を得ていた2008年〜2012年から10年も前であること、試合の重要度も低かったことから除外します。

日本人が戦ったことのあるリング誌 BEST FIGHTER POLL 1位は、残念ながらたった二人だけです。

一人目は、このランキングの記念すべき第一回のキング、ロベルト・デュランです(1980年1位)。

1980年バージョンの石の拳は、WBCウェルター級王者シュガー・レイ・レナードを大番狂わせで破った大金星が1位評価の決め手になりました。

デュランは、その後も名勝負を生み出し、歴史の大きな爪痕を残しながら2001年に引退しますが、その全盛期がライト級時代にあったことに誰も異論はないでしょう。

この稀代のグレートに、三人もの日本人ボクサーが挑みました。
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1971年10月16日、パナマシティ。ジュニアウェルター級ノンタイトル10回戦。

vs小林弘。


この試合までデュランは25戦全勝22KO、小林は61勝10KO9敗4分。

元統一世界ジュニアライト級王者の小林は、看板背負った咬ませ犬としてパナマに呼ばれます。

パナマの期待を一身に背負った当時20歳の石の拳は、3月まで世界王者だった27歳の日本人を圧倒、世界ランキングを手に入れると、その勢いのまま翌年マジソン・スクエア・ガーデンでケン・ブキャナンからライト級のWBAパーツを強奪します。

そして、7ラウンド壮絶なKO負けに散った小林は、この試合でグローブを吊るしました。

小林のキャリアが完全に晩年を迎えていたこと、相手がのちに歴代PFPでも上位に名前が挙がる超グレートであったことを考えると、ノーチャンスの試合でした。

WBAライト級王者になったデュラン、その三度目の防衛戦もまた、太平洋を渡ってパナマに乗り込んだ日本人でした。

1973年9月8日、やはりパナマシティ。 WBA世界ライト級タイトルマッチ15回戦。

vsガッツ石松。


この前年、プエルトリコのエステバン・デ・ヘススにプロ初黒星をつけられていたデュランでしたが、その評価は変わらず高いものがありました。

このときデュランは37勝31KO1敗、石松は25勝13KO10敗5分。

このイベントにはもう一人の日本人、スパイダー根本がセミファイナルに登場。

WBAフェザー級王者エルネスト・マルセルに挑戦しましたが、9ラウンドKOに敗れました。

そして、1970年6月6日にやはりパナマの同じ会場で統一ライト級王者イスマエル・ラグナに13ラウンドでTKO負けして以来、二度目の世界挑戦となる石松がリングに上がります。

22歳の石の拳はまだまだ荒削りでしたが、初回から原石の凄みを十分に感じさせる猛攻で石松を攻め立て10ラウンドで攻め落とします。

またもや世界に手が届かなかった石松は、幸運なことに翌年4月WBC王者ロドルフォ・ゴンザレスへ挑戦するチャンスが与えられます。

そして、やはり圧倒的不利予想の中、今度はオッズを覆して三度目の正直を成し遂げるのです。



1974年12月21日、コスタリカはサンホセ。WBA世界ライト級タイトルマッチ15回戦。

vs高山将孝。


デュラン五度目の防衛戦。

唯一敗れたヘススを11ラウンドKOに屠った石の拳は、もはや誰も止める事などできませんでした。

あっという間に三度倒されてゲームオーバー。わずか1分40秒の惨劇でした。