日本にとって米国が特別な国であるように、英国にとってもそれは同じです。

巨大な力で日本をねじ伏せた国、信じられない裕福さを市民が享受している国、高水準のスポーツ興行が数多く開催される国…日本にとって米国は憧れの国でした。

一方、英国にとって米国は、かつての弟分でした。軍事と経済の覇権を奪われた米国は、英国にとって愛憎混合する「大出世した弟」です。

ボクシングでも「米国の王者を米国で玉座から引き摺り下ろす」というのは英国のメディア、ファンにとって特別な〝事件〟なのです。

1986年9月27日、ニュージャージー州アトランティックシティのシーザースホテル&カジノに組み上げあっれた特設リングで、世界ウェルター級完全統一王者ドナルド・カリーを大番狂わせでストップしたロイド・ハニーガンが英国で熱烈な歓迎を受けました。

事情を知らない、当時大学生になったばかりの私が図書館で見た英国の新聞、雑誌に溢れる過剰な報道は異様に感じるほどでした。

それから29年後、2014年8月16日のカリフォルニア州カーソンのスタハブセンターでやはりウェルター級のIBF王者ショーン・ポーターに競り勝ったケル・ブルックもこの一戦によって英国でのステイタスをさらに高めました。

英国ボクサーにとって、米国リングに挑戦者として上がることは特別な意味、物語があるのです。

勝利をもってしか完結しない、悲壮な物語が。

しかし、得意なクラスが中重量級とオーバーラップする米英対決は、英国にとって常に劣勢を強いられてきました。

その傾向は、ことヘビー級になるとさらに顕著になってしまいます。

1897年、偉大な世界ミドル級王者ボブ・フィッツモンズがカーソン(ああ、この試合もカーソンでした)でジェイムズJコルベットを破ってタイトルを5年ぶりに英国に取り戻してますが、1899年にジェイムズJジェフリーズに初防衛戦で敗れ、覇権は再び大西洋を渡ってしまいます。

このフィッツモンズの敗北が、忌々しい連敗記録の始まりとなります。

ジョー・ルイス、ロッキー・マルシアノ、フロイド・パターソン、モハメド・アリ、マイク・タイソン、米国が誇るヘビー級王者の前に英国の挑戦者たちはことごとく打ち砕かれてしまいます。

この〝ヘビー級の呪い〟を94年ぶりに解いたのはレノックス・ルイス。1993年、トーマス&マックセンターでレノックス・ルイスがトニー・タッカーに勝利して、世界ヘビー級タイトルマッチ(WBCバージョン)で米国人を米国で倒すことに成功しました。

しかし、これには注釈が必要でルイスは「米国のヘビー級王者を米国で玉座から引き摺り下ろした」のではなく、リディック・ボウが放擲したWBCタイトルを書類手続きを経て戴いた、つまりペーパー王座の初防衛戦でした。

そして、ルイスは1999年にやはりトーマス&マックセンターでイベンダー・ホリフィールドとのリマッチに勝利して完全統一王者の座に就きました。これで文句無し、晴れて「米国本土で米国ヘビー級王者を打ち破った」ことになります。

英国で最も賞賛される偉業を成し遂げたヘビー級ボクサーは過去にフィッツモンズとルイスの二人しかいません。

タイソン・ヒューリーは史上二人目の「米国本土で米国ヘビー級王者を打ち破る英国人」を目指すのです。
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かつてヘビー級の世界戦となれば、米国ボクシング界にとって最大イベントでしたが、今はビッグファイトの一つでしかありません。しかし、英国での盛り上がりは特別です。〜英国ボクシングニューズ誌「ワイルダーvsヒューリー大特集号」〜

米国本土でヘビー級王座に英国人は、2004年11月にWBC王者ビタリ・クリチコ(米国人ではなくウクライナ人ですが、生半可な米国人よりも遥かにタチの悪い超強豪王者でした)に4度もカンバスに叩きつけられて葬り去られたダニー・ウィリアムスが最後、ヒューリーは14年ぶりの偉業に挑戦することになります。

ウラジミル・クリチコからリング誌とリネラル王者の座を大番狂わせで奪ったヒューリーは一躍、スターダムにのし上がりましたが、重度の躁鬱病からアルコールとドラッグの底なし沼に嵌り、2年近くもリングから遠ざかってしまいました。

天国に、まさかの近接していた地獄に落ちたヒューリーは、どん底から這い上がって(本当に這い上がったのかどうか、まだ判断しかねますが…)、再び世界の舞台に漕ぎ着けました。

「失ったものがいかに大切で尊いものだったか、手放してしまったからこそ、よくわかる。それを取り戻したいと願う、今のモチベーションは、初めて勝ち取ろうとしたときの比ではない」。

ヒューリーには「ヒューリーの絶対に負けられない事情」があるのです。

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21世紀に入って、世界ヘビー級タイトルはビタリ&ウラジミルのクリチコ兄弟による〝ウクライナの軛〟が続き、その牙城を撃ち崩したのはヒューリーとジョシュア、いずれも英国人でした。

ヒューリーのブランクでリング誌タイトルは空位、 WBCのピースはワイルダーが持っているとはいえ、ヘビー級の覇権がヨーロッパにあることは、もはや誰にも否定できません。

それは、明後日ワイルダーが勝利しても変わりません。米国にはワイルダーしかいませんが、ヨーロッパには明日を担う巨人が列をなして並んでいます。

もし、ワイルダーが負けるようなことがあれば…ただでさえ瀕死の米国ヘビー級にとって、その敗北は死亡宣告となります。

次回は、ヒューリー以上に「絶対に負けられない事情」を抱えるワイルダーのお話です。