9月16日、ベルリンマラソンでエリウド・キブチョゲが2時間1分39秒の世界記録を樹立しました。

このショッキングな世界記録誕生のニュースに、日本のマラソンファンは別世界の出来事のように感嘆するしかありませんでした。

「東京2020は酷暑になる。記録よりも夏のマラソンへの適応力が物言うから、日本人にもチャンスはある」という楽天的な見方は、確かに一理あるかもしれません。

しかし、設楽悠太の日本記録2時間6分11秒から5分近くもかけ離れてキブチョゲが激しくノックした2時間斬りのドアは、日本人には触れることすら出来ない天空の彼方にあることも事実です。

ひたすら悔しいですね。

かつて、驚異的な世界記録誕生が別世界の出来事などではなく、マラソンファンが「タイムはちょっと先を越されたけど、一緒に走ったら負けない」とライバル目線で見ることの出来た時代が、確かにありました。

今では考えられないマラソン黄金時代。日本のトップ選手の名前が陸上ファンだけでなく、スポーツファンはもちろん、誰もが知っていた時代がありました。

駅伝競走の影響で、もともとマラソン熱が高かった日本でしたが、モスクワ五輪が2年後に迫った1978年、宗茂が2月の別府大分で世界歴代2位となる2時間9分5秒をマークしたことで、マラソン人気は一気に沸騰します。

そして12月の福岡国際マラソン。世界選手権(世界陸上)がなかった当時、五輪を除くと誰もがこの大会を世界最高峰と認めていました。

この〝世界選手権〟を制したのは早稲田大学3年生の瀬古利彦。

「日本人の表彰台独占」も期待された1980年モスクワ五輪はしかし、米ソの醜悪な対立が神聖はスポーツの舞台に持ち込まれて、米国の属国日本はボイコットしてしまいます。

モスクワの42.195㎞を制圧したのは、東独のワルデマル・チェルピンスキー。

幻の代表に選ばれていた瀬古と宗兄弟の三人が、自分たちが走ることのできないモスクワのアスファルトを疾走するチェルピンスキーの姿をどんな思いで見ていたかを考えると胸が痛くなります。

そして、その年の福岡国際。

この1980年大会は五輪に出ることが叶わなかった日本にとって選手はもちろん、ファンにとっても〝世界選手権〟という枠を超えた、〝福岡五輪〟でした。

大会運営が、モントリオールに続いてモスクワでも金メダルに輝いたチェルピンスキーを福岡の舞台に引っ張り上げたのは、日本のマラソンファンの思いを代弁してくれるものでした。

そして、ここでも勝ったのは瀬古。

6位に終わったチェルピンスキーや国内のライバル、ロバート・ド・キャステラらを競り落としてゴールテープを切りました。

メディアは「瀬古が世界最強」と浮き足立ちましたが、それも仕方がないほどの勝ちっぷりでした。

しかし、1981年10月25日。米国から衝撃的なニュースが届きます。

アルベルト・サラザールが2時間8分13秒の世界記録でニューヨークシティ・マラソンで優勝したのです。
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今のマラソンファンは「サラザール」と聞いて、大迫傑も所属するナイキの「オレゴンプロジェクト」を真っ先に思いつく人もいるかもしれません。

従来の記録は、1969年にデレク・クレイトンが打ち立てた2時間8分33秒。

〝アンタッチャブル〟といわれた大記録を12年ぶりに更新したのです。※サラザールのこの記録は1984年に「距離が短かった」として無効になりました。

そして、わずか1ヶ月あまり経った12月の福岡国際ではダークホースのキャステラが、伊藤国光をねじ伏せて2時間8分18秒の世界歴代2位で優勝、世界が「8分時代」に突入したことを宣言します。

当時、8分台の日本人はまだ生まれていませんでしたが、瀬古にその実力があることは明白であるだけでなく、サラザールやキャステラにも十分対抗できるスピードとスタミナを持っていること、彼らにはない一瞬の隙を突く剃刀のようなスパートを持っていることを、ファンは知っていました。

だから、マラソンファンはサラザールやキャステラを「異次元の怪物」ではなく、「生身のライバル」として見ることが出来たのです。

本来なら考えたくない「瀬古でも負けるかもしれない」という思いですが、強烈なライバル登場はざわざわとした興奮を湧き上がらせてくれました。

衝撃的な世界記録を知らされても「別の世界の出来事」ではなく、「ライバル登場」と武者震いが出来た…幸せな時代でした。