ボクシングのマイナー化と競技人口の容赦ない縮小から、大手ジムでも閉鎖を余儀なくされる中で、ユーリユーリ阿久井政悟の活躍は、懐かしい名前を思い出させてくれました。


「倉敷守安ジム」。

東洋太平洋ストロー級王者ウルフ時光がその小さな拳に魂を込めたのは、まさに世紀末。

認定団体の地域タイトルも含めた「世界」を冠を付ける世界チャンピオンを粗製濫造。〝与信管理〟によるデタラメ世界ランキングに拍車がかかる、そんな〝終わりの始まり〟の時代でした。

あらためて、調べてみると個人的にはウルフ時光がプロデビューした1994年は長女が生まれた年。ウルフが世界初挑戦した1999年は海外仕事で大きなやるせなさに直面。ウルフが再挑戦した2001年に転職しました。


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当時のリゲインCMに、なんとアイラン・バークレーが…。(本文とはそんなに関係ありません)



ーーーーー1998年2月22日。全国的には誰も知らない、キャパ200人という本当に小さな体育館、岡山県倉敷市にある倉敷山陽ハイツ体育館で、そのドラマが起きました。


やはり、誰も知らない20歳の若者が、元IBFストロー級王者で当時東洋太平洋同級王者のニコ・トーマスをマジョリティーデジションで破り、日本を飛び越えて東洋のタイトルを掴み取ったのです。

情報が少なかった当時を象徴する二つの事例をご紹介。

①「35戦29勝13KO4敗2分と発表されていたトーマスの戦績は、米国のレコードブックによると28戦13勝7KO13敗2分」(試合を伝えたボクシング・マガジン1998年4月号)とされていましたが、BoxRecでは37戦20勝11KO13敗4分。

②トーマスが時光が苦手とするサウスポーだったとわかったのは、試合の3日前。

試合は経験豊かな31歳のインドネシア人が序盤で主導権を握りますが、第3ラウンドに時光の左フックをガードの上から受けた王者が足をもつれさせて尻餅。これを主審は「ダウン」と裁定。

試合後に「あれはスリップ。あれをダウンにされたらどうしようもない」と、トーマスが嘆いたように、厳しいアウエーの洗礼でした。

それでも、12回戦のタイトルマッチはまだ9ラウンドも残されています。何よりも、3ラウンドまでのジャッジはほぼイーブン。

しかし、20歳の若者はこの「ダウン」で勢いづいてクロスゲームをモノにしました。

元日本ジュニアウェルター級王者の守安竜也会長が育てた初めてのチャンピオンがこのスポーツに惹きつけられたのは、幼稚園のときにテレビで見たアニメ「がんばれ元気」。

小学生になると自宅庭に砂袋を吊るした手製のサンドバッグを叩き、鉄アレイやバーベルでの筋トレにも励みました。

中学生になるとボクシングジムへの入門を父親にお願いするも、一番近い守安のジムまでは60km以上の距離があり「いくらなんでも遠すぎる。高校になったら」と却下されてしまいます。

父親は「中学の3年間で他に好きなことを見つけて、ボクシングは忘れるだろう」と思っていましたが、そんな中途半端な子供ではありませんでした。

岡山守安シム(当時)に入ると「ジムでステップを踏むだけで、俺もボクサーなんだ」と充実感が込み上げてきた時光でしたが、最初のスパーリングの直後から偏頭痛に悩まされ、病院では「ボクシングに向いていない」と診断されてしまいます。