読売新聞10月4日夕刊。
エデル・ジョフレが天国に。
私の脳内ではニュース速報がピコンピコン鳴り響き、号外が飛び交っているのですが、どうも世間はそんなことはないようです。
気をとりなおして。。。
エデル・ジョフレが天国に。
私の脳内ではニュース速報がピコンピコン鳴り響き、号外が飛び交っているのですが、どうも世間はそんなことはないようです。
気をとりなおして。。。
【衝撃のZボーイズ】
バンタム級が最も輝いていたのは70年代です。
その主役はメキシカン、そのグレートの中でもカルロス・サラテは極彩色の輝きを放っていました。
「史上最高のノックアウト・アーチスト」。
この議論は、カルロス・サラテ抜きで語ることはできません。
70戦のキャリアで喫した敗北は、ウィルフレド・ゴメス、ルペ・ピントール、37歳で戦ったジェフ・フェネック、ダニエル・サラゴサの4つだけ。
残りの66試合は66勝、そのうちKOは、なんと63を数えるのです。途中9年間のブランクがあるにもかかわらず、66勝63KO4敗。
そんな破格のパンチャーが軽量級にいたなんて、信じられますか?
ウィラポン・ナコンルンアンプロモーションや、レオ・ガメス、オマール・ナルバエスを見るまでもなく、ボクシングは数字で語るスポーツではありません。
しかし、サラテのキャリアは記憶に残る名勝負を繰り広げた血風録。チェリーピック(雑魚狩り)でガラクタを集めた66勝63KOではないのです。
1976年にタイトルを獲得したときの星勘定は、39勝38KO。
カリフォルニア州イングルウッドのフォーラムに集まった17,000人以上の大観衆の前で、WBC王者ロドルフォ・マルティネス相手に3-1のオッズの通りに、優勢に試合を進め9ラウンドで終わらせました。
そして、3度の防衛をいずれもノックアウトで片付けたザラテは、ライバル王者WBAのアルフォンソ・ザモラとの決戦の舞台に上がるのです。
1977年4月23日。会場はもちろん、カリフォルニア州イングルウッドのフォーラム。
このとき26歳のサラテは45戦全勝44KO、対する23歳のサモラは29戦全勝29KO。
このビッグファイトが実現したのはWBAとWBC以上の憎悪が、両陣営に渦巻いていたこと、そしてこの試合をノンタイトルの120ポンドのキャッチウェイトで行うことで妥協点を見出したからでした。
2人はメキシコの伝説、クーヨ・エルナンデス門下で世界王者になります。
Non-title bout – the famous “Battle of the Z-Boys.
ZarateとZamora、若い2人はZ-Boys の愛称で国民的英雄となっていました。
しかし、サモラは金銭面を巡る確執でクーヨと袂を分かち、両者は「裏切り者の守銭奴」「奴隷契約を強いる金の亡者」と罵り合い、憎悪の沼は深くなる一方。
そこで、リングの上での〝決着戦〟が用意されたのですから、戦前からファンも巻き込んでオーバーヒートするのも当然でした。
人気はミュンヘン五輪銀メダリストのサモラが優っていましたが、勝敗予想は真っ二つ。
「この試合には複雑な感情がいくつも絡み合っていた。タイトルがかかっていなかったのが残念だった」とサラテは振り返るものの、ファイトマネーは「通常の10万ドルに、契約書に明記されない10万ドルが上積みされた。モチベーションが跳ね上がったよ」。
サモラの報酬は10万ドル、サラテの報酬と合わせても30万ドル。
現在とは為替相場が違い、メキシコと日本の貨幣価値はもっと違いますが、同時代の大場政夫や輪島功一、具志堅用高らと比べて、けして驚くような報酬ではありません。
しかし、サラテvsサモラが今なお語り継がれる世界的な大勝負になったのは、それだけ価値のある二人がプライムタイムに激突したからです。
変圧器までオーバーヒートさせた試合は、第1ラウンドに1人の男がリング内に闖入。
〝空手ポーズ〟をとる男にZ-Boys も主審のリチャード・スティールも唖然。男は警備隊5人がかりでリング外に叩き出されます。
コーナーポストにコロナビールの広告がある以外は簡素極まるリング、両者ともに赤のレイジェスに赤のトランクス、どこまでもひたすらクラシックな大勝負。
そして、ロープはまだ3本。4本ロープの契機になった「エミール・グリフィスvsベニー・パレット」(1962年3月24日)から15年の歳月が流れていましたが、メキシコではまだ4本ロープは完全ルール化されていなかったのです。
第4ラウンド、サモラが3ラウンドに続いて2度目のダウン。
完全に効いています。これがフォーラムではなく、ラスベガスなら、あのスティールのことです。すぐ試合をストップしたはずです。
しかし、ここはメキシコの〝飛び地〟イングルウッドのフォーラム。
止めたら、サモラのファンが暴動を起こしたでしょう。
このラウンド2度目のダウンは、サラテの左アッパーのダブルから右アッパー。うつ伏せに沈んだサモラが弱々しく体を仰向けると、ちょうどその顔の上に父親が投げたタオルがふわりと落ちます。
サモラ父がリングに駆け上がったのは息子の介抱のためではなく、クーヨ・エルナンデスをぶん殴るためでした。
「最後のパンチはダウン後に打った反則だ!120ポンド契約もジャッジも何から何までサラテに有利、こんな試合は認められない!インチキだ!」。
変圧器も空手男もサモラ父も、何もかもがオーバーヒートした試合が終わりました。
負けてから何を言っても、始まりません。
試合は終わってしまったのです。だからこそ、Bサイドに回る試合は慎重に契約しなければならないのです。
カネロと戦うボクサーが交渉をコジらせるのは、報酬の吊り上げだけが目的ではありません。
サモラはサラテ戦から引退までの9試合を4勝5敗、黒星はいずれもKO負け。
一つの敗北を境に、別人になってしまう。アルフォンソ・サモラは、そんな哀しいボクサーの典型でした。
しかし、サラテ戦の記憶に残る一戦、それまでのパーフェクトレコードは世界中のボクシングファンは一生忘れることなく、いつまでも語りつがれるでしょう。
【リアル・あしたのジョー】
80年代になると、ファイティング原田の陥落から世界バンタム級王座から遠ざかっていた日本のボクサーが続々とタイトルマッチの舞台に上がります。
村田英次郎は、OPBFバンタム級王座を12度防衛することになる東洋無敵の118パウンダー。
その村田は4度、世界挑戦するも頂点を掴むことは出来ませんでした。
1980年6月11日、WBC王者ルペ・ピントール:15ラウンド引き分け。
1981年4月5日、WBC王者ジェフ・チャンドラー:15ラウンド引き分け。
バンタム級史に残る強豪王者と立て続けに引き分けた村田でしたが、3度目の正直も、4度目の悲願も実りませんでした。
12月11日、チャンドラー:13ラウンドTKO負け。1983年9月11日、チャンドラー:10ラウンドKO負け。
そして「ファイティング原田以来、二人目の世界バンタム級王者」に就いたのは、六車卓也。
1987年3月29日、ベルナルド・ピニャンゴが返上したWBAストラップをアサエル・モランと争い、快勝します。
しかし、このときピニャンゴが保持していたLineal championの座は、35年後に井上尚弥がノニト・ドネアを倒すまで空位のままになるのです。
【辰吉丈一郎の季節】
短命王者に終わった六車のWBAを輝かせたのは、バンタムから3階級制覇を達成するウィルフレド・バスケスでした。
一方のWBCは評価の高かったミゲール〝ハッピー〟ロラが、長身のラウル・ペレスが攻略されてしまいます。
ペレスも安定王者になると確実視されていましたが、伏兵グレグ・リチャードソンのフレア(ノミ)と表現されたすばしっこい動きに翻弄され陥落。
WBCのストラップは大揺れに揺れますが、その振幅をさらに大きくしたのが辰吉丈一郎でした。
1991年9月19日、辰吉はデビュー8戦目、当時の最短記録でリチャードソンを鮮やかに仕留めるも、ビクトル・ラバナレスにストップ負け。
ここから「ファイティング原田を超える逸材」は、波瀾万丈の浪花節の世界に迷い込んで行きます。
辰吉はダニエル・サラゴサに連敗、薬師寺保栄とのWBC団体内統一戦にも負けて、引退確実と見られますが…。
この頃、JBCが認可していない第三世界、すなわちIBFで、のちに殿堂入りするグレートが活躍していました。
オルランド・カニザレスです。
バンタム級の防衛記録「16」のレコードホルダーですが、今となっては過大評価の感は拭えません。
カニザレスにジュニアフェザー級王者として勝っているバスケスの方が殿堂にふさわしいと、個人的には思うのですが、これは人が決めることです。
軽量級は貧しい国の選手が多く、興行規模によって承認料が変動する団体にとっては、軽量級人気の高い富裕国・日本のボクサーを優遇したいのは当然です。
米国人のカニザレスにはその理屈に、米国が本拠地のIBFという風もあったかもしれません。
そして、カニザレスの薄い対戦相手に防衛回数を重ねるスタイルは、WBCでも定着します。
【殿堂入りとは無縁のWBC長期政権…】
1998年12月29日に辰吉から奪取したピースをウィラポンは14連続防衛。
タイトル獲得と防衛戦で辰吉と2試合、西岡利晃とは4試合、日本人と6試合も世界戦を繰り広げました。
そのウィラポンからタイトルを奪ったのが長谷川穂積でした。舞台はいずれも、日本。
2010年4月30日に階級最弱と見られていたWBO王者フェルナンド・モンティエルにストップされるまで、10度の防衛を果たしました。
そのモンティエルを予告通りに2ラウンドでKOしたのが、ノニト・ドネア。
当時のドネアはトップランク傘下でしたが、マニー・パッキャオのメガファイトのアンダーカードに組み込まれることを拒否、ゴールデンボーイ・プロモーションズ(GBP)入りを画策していました。
「ライト級まで制覇してPPVファイターになる」と夢見ていたドネアは、「フェザー級でも強いはず」とGBPも期待していたのですが…。
そんな人気階級へ急ぐドネアからWBCはタイトルを剥奪、王者決定戦で勝利したのが、山中慎介でした。
〝神の左〟は長谷川を超える12連続防衛を果たし、具志堅に並ぶ節目の13度目は「強い相手を」と、王者ではないもののリング誌ランキングなどで高評価を得ていたルイス・ネリを選びます。
ネリはスピードと野生だけが武器のメキシカンでしたが、パンチの引きが遅い山中にとっては最も苦手なタイプ。
しかも、悪い意味で倒し慣れしていた34歳の好漢には、初戦の失敗からの修正能力はほとんどなく、ネリに連敗。
長谷川も山中もWBC御用達の挑戦者とのぬるま湯につかり、最後はけして強いとは言えない相手にあっけなくストップされてしまいました。
ここで見落としてはならないのは、強い相手を避けていたのは彼らではない、ということです。
長谷川も山中もラスベガスでのビッグファイトを希求し、山中は「レオ・サンタクルス」と具体的な名前も口にしていました。
他のスポーツなら…バンタム級世界チャンピオンというモノサシでは、あの時点の山中の方がサンタクルスよりも上です。
他のプロスポーツでも実力と人気に乖離があるのは当たり前ですが、ボクシングの場合はそれが酷すぎるのです。
リカルド・ロペスは女子ボクサーの前座、ユーリ・アルバチャコフはハリウッド俳優の前座、井上尚弥も人気女子選手と抱き合わせ。
他のスポーツなら人気がなくても実力があれば、それに見合う最低限の報酬が約束されます。
スポンサー収入が少なくても、選手報酬だけなら実力>>>人気が当たり前です。
それが当たり前でないのが、プロボクシングです。
劣化ウィラポンを仕留めた長谷川穂積は10度、山中慎介は12度とWBCバンタム級という保護区で砂上の楼閣を築きますが、それはまさに数字だけ。
長谷川はフェザー級とジュニアフェザー級のタイトルも獲得、3階級制覇に成功しますが、それも数字しか意味のない〝偉業〟でした。
ウィラポン、長谷川、山中。
ウィラポンは日本では最強の名王者、長谷川はboxing scene .com、山中はリング誌でPFP10傑入りを果たしますが、3人とも殿堂入りはお呼びでないまま。
…ウィラポン、長谷川、山中。彼らは、誰に勝ったのでしょうか?
【ありえないはずの「弱いヒール」の登場…】
WBAバンタム級王座を8連続防衛と長期政権を築いた亀田興毅は、江川卓や桑田真澄を超える日本スポーツ史上最大のヒールになります。
江川や桑田は、どんなアンチでも「ドラフトのやり方は気に食わないけど実力は認める」というとんでもない才能でしたが、亀田は違います。
ヒールは「強い」悪役です。弱ければヒールではありません。
強いから叩くのです。弱いのに叩いたら、それは弱い者イジメです。
ところが…。
実力的に誰も認めないのにスーパーヒール「亀田」とは、ブッチャーもフロイドさんも腰を抜かす存在でした。
江川や桑田の話でいうと、彼らはどんな手を使ってでも入団させたい才能だったのです。
そして、彼らが主導するわけでもないのに「どんな手でも使った」ことでスーパーアンチになります。
アンチもその実力を認めざるを得なかったから、彼らはあそこまでのヒールになれたのです。
しかし、亀田にはそれがないのです。本当は寄ってたかって袋叩きにして、謝罪させたり、泣かせたりしてはいけなかったのです。
それ、弱い者イジメです。最後は泣かせて詫びを入れさせる、というのもなんとも不愉快でした。
「可哀想な家族だ」「不憫な人たちだ」と哀れんであげるのが、正しい接し方だったのです。
しかし、そんな亀田を「あの頃のプロボクシングが大嫌いだった」「辰吉さんや畑山さんのように純粋にボクシングを盛り上がる時代を取り戻したい」「相手を選んで世界王者になるとかありえない」「井上家では軽々しく世界王者なんて絶対口にできなかった」と公言、「亀田」とは一言も口にしてないものの、逆にそれが剥き出しの敵意を際立たせるヒーローが現れます…。







コメント
コメント一覧 (1)
三流フローレスに実質連敗で終わった…
好きなタイプの選手だったので残念。
フシ穴の眼
が
しました