私が世界のボクシングに耽溺した1980年代は、まだ米国の時代でした。

シュガー・レイ・レナード、マービン・ハグラー、ロベルト・デュラン、トーマス・ハーンズが総当たりで繰り広げたFOUR KINGSの時代が終わると、米国リングはスター不在の空虚に悩まされる90年代を迎えてしまいます。

確かに、マイク・タイソンは破格のファイトマネーを稼ぎ出していましたが、ボクサーとしては完全に底が見えたハリボテでした。

「タイソンが最強」という甘すぎる幻想を抱く者は、それが熱狂的なタイソン信者ですら「全盛期なら」という注釈付きになっていました。

そして、ほぼ全ての識者やメディア、ファンはタイソンの輪郭を「強い相手に一度も勝てなかった」「技術と精神に欠陥を抱えた引き出しの無いファイター」と正確に捉えていたのです。

そんな時代に、タイソンとは真逆、見せかけの派手さはないものの、後世まで評価される本物の強さを圧縮したようなファイターが現れます。
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フリオ・セサール・チャベスです。

米国では「メキシコ史上最高ファイター」をカネロ・アルバレスとする見方も見られるようになりましたが、少数派。

今なおJCスーパースター・チャベスが、特にメキシコでは絶対的存在です。

マティズムだけが評価基準のメキシコです。いまだにキャッチウェイトをちらつかせる女々しいカネロはお呼びではありません。

米国在住のメキシカン、メキシコ系のカネロ支持者ですら、ゲンナディ・ゴロフキンとの第1戦で足を使って打撃戦を回避したカネロにブーイングを浴びせたことを思い出せば、彼らが求めていることは一つしかないことがよくわかります。

彼らの理想形は、被弾を厭わず激しい打撃戦を好む生粋のメキシカンのファイターです。
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おそらく、カネロがメキシコ史上最高のファイターと讃えられる日は永遠に訪れないでしょう。

TripleGとの初戦を猛省したカネロは、メキシカンが信じる〝宗教〟の教義に従うよう敬虔な努力を続けています。

それは、過ちを犯した信徒が懺悔と贖罪をするように。

しかし、キリスト教の教祖がJCスーパースターであるのと同じように、メキシカンの教祖もJCスーパースター・チャベスでしかありえないのです。

リング誌10月号は、メキシコ時代の扉を開いたメキシカンスタイルの権化、フリオ・セサール・チャベスの特集です。


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「私はナチュラルボーン・ファイターだ」。

そう語っていたJCCがボクシングを始めたとき「ボクシングは好きじゃない。家族を養うために、母親に家を建ててあげるためだった」とも吐露しています。

そして、プロでの無敗伝説。12戦目で失格負けを喫したのは事実なのか?



「最初は草拳闘だった。グローブをはめさせられて他の子供と戦わなければならなかった。ファイトマネーは1ペソか50セントだった」。

JCの母親は働きづくめでした。

洗濯、アイロンがけした山のような衣類を必死でたたむ母親の足に抱きついた幼いJCは「いつか他の人の汚れた服を洗うだけの毎日を終わらせるよ」と話すと、母親は何も答えずに微笑んで衣類をたたみ続けていました。

JCが「世界チャンピオンになる」と言うと母親は「ありがとう。この小さな子供がいつになったら世界チャンピオンになれるかね?」と優しく頭を撫でたのでした。

サッカー、バレーボール、バスケでも全国大会に出場したチャベスは、アマチュアボクシングも経験しましたが「14試合だけ。そしてある試合で不可解な判定負けを突きつけられた。盗まれた気分だった」といいます。

その試合にキッド・アステカが観戦していて「お前が勝っていた。世界チャンピオンになれ」と激励してくれます。

アマチュアに失望してプロ転向。

「練習はスパーリング中心の実践だけ。サンドバッグは打ったが、パンチングミットも使わなかったし、スピードバッグは使い方も知らなかった」。

1980年2月、そして迎えたデビュー戦。

相手のアンドレス・フェリックスは「プロで数試合を経験していた長身ファイターで、6ラウンドでKOしたけど、非常にタフな試合だった」(BoxRecによると、フェリックスもデビュー戦)。

想像以上に疲弊したチャベスは「こんなに厳しい世界では生き残れ無いかもしれない」と弱気になって、ジムから遠ざかりました。

しかし、母親と家族を助ける道は戦う他にはありません。

「ジムに戻ったのはカネのためだけだった」。

「17歳でプロデビューしてから、人生をボクシングに捧げてきた。酒もタバコの口にしたことがない。常に厳しい規律を守り続けた」。

プロ12試合目のミゲル・ルイス戦は「ゴング後の打撃で失格負けが一度宣告された」という〝伝説〟の一戦。

「多くの嘘がまかり通っている。ゴングが鳴った瞬間の右ボディで倒して、テンカウントが数えられたんだ。ルイスのマネージャーが私の反則負けだと騒いでいたが、判定は変わらなかった。試合翌日とか、数ヶ月後に判定が覆った(その間は黒星が記録されていた)という人がいるが、彼らは誰一人試合を見ていない」。

JCは、ウィルフレド・ゴメスに2度も挑戦したファン・アントニオ・ロペスを見てボクシングにインスパイアされました。

アイドルはルーベン・オリバレスで、強烈なレバーブローに夢中になったといいます。

厳しい規律を守り続けたチャベスが、酒やドラッグに手を出したのは1992年9月のヘクター・カマチョ戦のあとでした。

この試合に圧勝、デビューからの連勝を82(67KO)に伸ばしたチャベスでしたが「特別仕様の車に豪邸、自家用機まで手に入れて、銀行には数百万ドルの貯金もあった」と、ハングリー精神を失ってしまいます。

それでも、試合には勝ち続けました。しかし、油断の悪魔は彼の精神を犯し、増える一方の酒とドラッグは肉体を蝕み続けます。

そして、1994年1月29日にフランキー・ランドール戦を迎えるのです。

「ラスベガスから故郷のクリアカンに帰ると、みんなが泣いていた。そこで初めて自分が取り返しのつかないことをしてしまったことがわかったんだ。どうしてこんなに多くの人を悲しませてしまったんだ、と」。

「酒やドラッグの依存症になったことを後悔してない。神様が一番大切なことを気づかせるチャンスを与えてくれたのだから。カネのためにボクシングを始めて、そのつもりでずっと戦い続けてきたけど、気がつくと応援してくれる人が、信じられないほどたくさんできた」。

「カネやモノは無くなったり盗まれたりするけど、私の勝利を喜んでくれる人の愛や、私の敗北を一緒に悲しんでくれる人の慈しみは、永遠に変わらない。カネのために戦い続けた私は、ついにカネでは買えないもの、誰にも盗まれないものを手に入れることが出来たんだ」。


近代ボクシングでは考えられない試合数と、神がかり的な連勝記録。

そんなクラシックなオーラを纏う一方で、メキシコ史上初の3階級制覇にPFPキングと、時代にアジャストした実績も残してきたメキシカンスタイルの完成形。

チャベスのお話も終わりそうにありません。