井岡弘樹は、井岡一翔の叔父ではありません。

日本人唯一の4階級制覇の一翔に対して、弘樹は半分の2階級にとどまりました。

世界戦の星勘定は、比べるまでもありません。

それでも、弘樹は一翔の叔父ではないのです。弘樹の甥が一翔です。

一翔もストロー級で団体統一、田中恒成をはじめ強豪とシノギを削ってきましたが、殿堂入りボクサーを撃ち落とした経験は一度もありません。

一翔が誰に勝ったのか?を問われるなら、田中恒成か八重樫東でしょう。
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後方、ロープをくぐろうとしているハンサムなおじさんは…村田英次郎です!

二階級制覇。

今では誰も驚きませんが、当時はファイティング原田と柴田国明しか成し遂げていなかった、史上三人目の大偉業でした。

一方で〝重箱の隅〟には「オリジナル8には存在しない二つの階級で王者になっただけ」「剃刀一枚の薄氷判定で再戦では完敗」という批判がこびりついていたのも事実です。

後世のボクサーが、柴田はもちろん、原田と並べて比較されるとき、必ず放たれる弓矢です。

ただでさえ、1団体10階級時代の原田と、2団体黎明期の柴田との比較では、世界王者の価値が全く違います。

そして、突きつけられる「誰に勝ったのか?」。

エデル・ジョフレは論外にしても、フリオ・セサール・チャベスも憧れていたビセンテ・サルディバルなんて大物は軽量級では、まず見当たりません。


井岡弘樹が競り落とした柳明佑もジョフレやサルディバルと比べられると色あせて見えます。

それでも、柳は、日本人では原田一人しかいないモダーン部門での殿堂入りを果たした世界的に評価の高いレジェンドです。
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2013年の殿堂セレモニー。拳の型を取ったあと、記念リングを披露する柳。この晴れ舞台に、原田以来の日本人が立つのは井上尚弥でしょうか。左下の写真はアーロン・プライアー!グレートが集うカナストータの祭典、死ぬまでに一度は見てみたいです。ハグラーやプライアーを生で見れたら、その夜は興奮して眠れないでしょう。

アジアの軽量級が無視されがちだった時代。

やはりモダーン部門で殿堂入りした張正九とカオサイ・ギャラクシーとともにリング誌のBest Fighterでトップ10に数えられた柳に、生涯39戦(38勝14KO1敗)のキャリアで黒星をなすりつけたのは弘樹だけでした。



1991年12月17日、大阪府立体育館。井岡弘樹、キャリア最大の大勝負です。

このリング上のデッドヒートを見直す前に、井岡を簡単に振り返りましょう。

井岡は1987年、WBC世界ストロー級王者となります。

18歳9ヶ月と10日での戴冠は今なお日本史上最年少記録。伝説のトレーナー、エディ・タウンゼントが「神様からのプレゼント」と絶賛した少年は「ストロー級」という新設階級への批判を和らげ、ボクシングファンに受け入れられます。

そして、無敗の元IBF王者・李敬淵との〝今なら団体統一戦〟での劇的勝利と、エディの死。ドラマテッィクなキャリアは、井岡を日本の若きエースに押し上げます。

しかし、ナパ・キャットワンチャイを迎えた3度目の防衛戦で、サウスポー恐怖症を晒け出してしまいます…そして、井岡には何の責任もないことですが、大ピンチに陥った最終回のゴングが30秒も早く鳴らされてしまいました。

そして、やはり井岡には全く責任のないことですが、敗北に見えた試合のスコアカードは113-114 /115-113 /113-113 の三者三様のスプリットドロー。

この試合を機に井岡の瑞々しいボクシングは影を潜め、屁っ放り腰のスタイルに陥り、ナパに2連敗。

世界チャンピオンの座を追われてから2年6ヶ月。日本のエースは辰吉丈一郎に移ろっていました。

まだ22歳とはいえ〝史上最年少王者〟の井岡にとっては、坂道を転げ落ちて黄昏れてもおかしくない年齢でした。

当時の柳は36戦全勝14KO無敗。1985年にジョーイ・オリボから奪ったWBAのストラップを6年間も守り続け、防衛のテープはなんと17にまで伸びていました。

17も防衛していてもまだ27歳の柳は、具志堅用高のような天性の強打はないものの、ソナギ(激しい夕立)と異名をとる、連打を叩き込むラッシャー。前年にレオ・ガメスの挑戦を、ソナギの嵐で2度退けているように衰えは見られません。

誰が見ても「柳明佑」は危険水域を超えた〝選んではいけない相手〟でしたが、大一番に挑む理由が井岡にはありました。

華々しくスタートしたキャリアは失速、辰吉や鬼塚にスポットライトを奪われた井岡にとって「このままでは終われない」という思いは強烈だったはずです。

その思いを込めた拳を叩き込む相手として、韓国のソナギはこれ以上ない絶好のチャンピオンでした。

この試合を日本に引っ張り込めた最大の理由は「井岡の試合は韓国でも放送されているから何度も見ている。私のトラブルになるボクサーじゃない」という柳の油断もありましたが、グリーン・ツダの津田博明会長の根回し、努力も無視できません。

当時、定着しつつあった前日計量を当日計量にした契約は、今でいうキャッチウェイトに近いリング外の画策です。

おそらくリングの大きさやカンバスの硬さもボクサータイプの井岡に有利なように調整されていたでしょう。

減量苦がささやかれる柳の陣営も、そんなことは百も承知だったはず。

「それでも勝てる」と、アジアのPFPキングは井岡をナメてしまったのです。

試合は初回から左ジャブとフットワークを駆使する井岡がベースを握ります。長身の日本人から放たれる速くて遠いジャブを何度ももらう柳は、鈍重な子牛に見えました。

中盤から、プレッシャーを強める韓国人と勇敢に打ち合うシーンも作る井岡は12ラウンドを走り抜けます。

スコアは井岡から見て115-113/117-112/113−115のスプリットデジション。接戦ではありましたが、井岡の勝利は間違いありませんでした。

しかし…。両者がリングを降りてから、JBC関西事務局長の角田吉夫が「集計ミスがあった。ハロルド・レダーマン(HBOの非公式ジャッジでも人気だったあの人です!)がスコアした井岡の115-113は114−114のドロー。よって三者三様の引き分け」と発表したのです。

柳のロッカールームは引き分け防衛に歓喜の声が上がり、井岡の部屋からは怒号が響きました。

その後、JBCの小島茂事務局長は「最初のスコアカードが正しい。井岡の勝ち」と謝罪。

このミスの原因は、WBAのヒルベルト・メンドサ会長の計算ミスと報じられていますが、会長が集計してたんかいッ!て話です。

せっかくの名勝負が、算数の出来ないWBA会長と、JBCの杜撰な管理体制で水がさされてしまいました。

30年も前の話ですが、WBAとJBCの姿勢はブレないですね。一貫して不誠実、不真面目、無責任で優柔不断。

ここまで腐敗してるのに存続してるのは、驚きや呆れを通り越して、笑うしかありません。

こう考えると「井岡」は弘樹も一翔も、本人の責任のないところで腐敗アルファベット団体の被害者です。

どんなに酷いスコアカードでも、それがオフィシャルなら受け入れるしかありません。ジャッジを代えろ、ちゃんとジャッジの研修制度や資格制度を充実・厳格にしろ、とかは後でしか言えません。

「採取した検体から大麻成分が出た」というのも、それがそもそも間違ってたなんて誰が思いつくか?JBCの担当者が自宅に持ち帰って冷蔵庫に入れてたとか、保管方法を知らなかったなんて、もう喜劇すらも超えてホラーです。

話が、横道に逸れて、統括団体の書きかけ話に合流する感じになりましたが、井岡弘樹のベストファイトは「柳明佑」か「李敬淵」か、意見が分かれるところです。

普通に考えたら「柳」。リング外のドラマも包含するなら「李」でしょうか?

偶然ですが「井岡」によって、ボクシング界の暗部がいろんな角度からあかるみに晒されたのは、改革のきっかけにしなければならないことでした。

なんにせよ、中谷が目指した超下克上、その系譜に井岡弘樹が名前を刻んでいたことは間違いありません。