それにしても、繁忙期が続きます。もう、そろそろゆっくりしたいです。根本的、生理的、宿命的に仕事は嫌いなんです。
こんな時期に取引先の男が「転職することになりまして」と挨拶に来やがった。
バイトの子にユニクロで花買ってきてもらって「このタイミングで挨拶に来るなー!」とドサッと渡してお引き取り願いました。
そして!
「ハグラー話はもう落ち着いた」と思ってる方もいるかもしれませんが、ハグラーへのトリビュートは永遠に続くのである!
▶︎モハメド・アリが衰え、プロボクシングのリングでは陽が沈みましたが、五輪をクライマックスとするアマチュアボクシングはモントリオール1976からロスアンゼルス1984まで絶頂期を迎えます。
五輪予選は地元TVが生中継、五輪本番も米国選手が出場する試合は全て地上波生中継されたのです。
こんな時期に取引先の男が「転職することになりまして」と挨拶に来やがった。
バイトの子にユニクロで花買ってきてもらって「このタイミングで挨拶に来るなー!」とドサッと渡してお引き取り願いました。
そして!
「ハグラー話はもう落ち着いた」と思ってる方もいるかもしれませんが、ハグラーへのトリビュートは永遠に続くのである!
しかし、マーベラス・マービンが玉座に就くまでには、理不尽なまでに長い長い時間が必要でした。
最初の世界挑戦は1979年11月30日。
舞台はやはり、もちろんネバダ州ラスベガス、シーザースパレスの屋外特設リング。
舞台はやはり、もちろんネバダ州ラスベガス、シーザースパレスの屋外特設リング。
18歳でデビューしたハグラーはキャリア7年、49試合を戦い25歳になっていました。
時代とアマ実績が全く違うとはいえ、完全ホームの大声援を受け、ミドル級史上最短の13戦目で世界挑戦した村田諒太と比べると、ハグラーがいかに長く暗い不遇の時間を過ごしたのかがよくわかるはずです。
やっと巡って来た世界挑戦、ハグラーの標的は、ミドル級のUndisputed Champion =完全統一王者、28歳のビト・アンツォヘルモ。
WBAからWBCが分離独立して10年が経過、当時の13階級で完全統一王者を抱えていたのはミドル級だけでした。
無冠の帝王と畏怖されていたハグラーは挑戦者ながらオッズ、予想とも圧倒的有利。
シュガー・レイ・ロビンソンがリングを去ってから、この伝統のクラスで覇権を築いたのはアルゼンチンのカルロス・モンソンだけ。
人気階級の完全統一王座が、ハグラーの拳によって米国に再びもたらされると、ロビンソンの時代が蘇る。
人気階級の完全統一王座が、ハグラーの拳によって米国に再びもたらされると、ロビンソンの時代が蘇る。
そんな期待に、米国ボクシングファンの胸が膨らんでいても不思議ではないはずでした。
しかし…。
この日の主役はハグラーではありませんでした。
ハグラーとアンツォヘルモの完全統一ミドル級タイトルマッチをセミに回して、メインイベントを飾ったのは、当時はミドル級と比べると人気階級とは言い難かったウェルター級、しかもWBCのワンピースだけがステイクされただけのタイトルマッチでした。
このイベントは、シュガー・レイ・レナードだけのために用意された舞台でした。
…それでは、脇役に追いやられた Undisputed Middle-weight Champion、アンツォヘルモの嫉妬と愚痴を聞いてみましょう。
Vito Antuofermo (middleweight champion, 1979-1980): Leonard made a million dollars to challenge Benitez. On the same card, I made $150,000 and Hagler made $40,000. We were all jealous. Leonard was only a challenger — even though he was a great fighter, he was only a challenger.
ビト・アンツォヘルモ(世界ミドル級王者:在位1979-1980)レナードの報酬は100万ドル、同じイベントで私が手にしたのは15万ドル、ハグラーは4万ドルだった。私たちはみんな、レナードを妬んだよ。レナードはただの挑戦者なのに、どうして?確かに彼は素晴らしいファイターだったけど、一人の挑戦者に過ぎないというのに。
▶︎レナードが最終的に手にした金額は100万ドルを大きく上回っていました。
しかし、五輪金のアイドルがスーパースターになれるかどうかは専門家の間でも「ウェルター級のレナードは高い知名度でプロデビューした。このまま面白い試合を勝ち続ける実力と、恐るべきライバルに恵まれる運、この二つの高いハードルが彼には待ち受けている」(歴史家:バート・シュガー)と懐疑的でした。
And in my very first defense, they made me fight Hagler. That’s a tough first defense. Nobody wanted to fight him. Hagler was the best I ever fought. He’s a southpaw who does everything so naturally both ways. He switches stances back and forth, and that gets a guy really mixed up. You can’t get comfortable.
初防衛戦の相手がハグラーだった。とんでもない防衛戦さ。ハグラーと戦いたい奴なんて、世界中探したって一人もいない。もちろん、私のキャリアで最強の相手だった。彼はサウスポーだったけど、右構えでもなめらかに戦えるスイッチヒッターだった。破格の強打者なのに巧いんだから、油断も隙もなかった。
Most of the time it would take me a couple of rounds to figure a guy out, and then I’d take over. But with him I was never able to do that.
私はいつも序盤のラウンドで相手の力量を測ってから攻撃に切り替えるんだけど、ハグラー相手にそんな余裕はなかった。
そして、次は苦労の末に掴んだ世界戦が〝レナード祭り〟の前菜にされたハグラーの回想。
“Marvelous” Marvin Hagler: I didn’t resent Leonard when we were both coming up. As a matter of fact, when Leonard was an amateur, I kinda liked him. I’d been following him since the Olympics, like everybody else.
当時はレナードのことを恨んでなんていなかった。私とレナードは同じ時代にアマチュアだったけど、彼はスーパースターだった。正直に言うと、私も彼に憧れていた。五輪で金メダルを獲ってから、彼の試合はしっかりチェックしてたけど、それって当時の米国なら誰でもそうだっただろう?
…それでは、脇役に追いやられた Undisputed Middle-weight Champion、アンツォヘルモの嫉妬と愚痴を聞いてみましょう。
Vito Antuofermo (middleweight champion, 1979-1980): Leonard made a million dollars to challenge Benitez. On the same card, I made $150,000 and Hagler made $40,000. We were all jealous. Leonard was only a challenger — even though he was a great fighter, he was only a challenger.
ビト・アンツォヘルモ(世界ミドル級王者:在位1979-1980)レナードの報酬は100万ドル、同じイベントで私が手にしたのは15万ドル、ハグラーは4万ドルだった。私たちはみんな、レナードを妬んだよ。レナードはただの挑戦者なのに、どうして?確かに彼は素晴らしいファイターだったけど、一人の挑戦者に過ぎないというのに。
▶︎レナードが最終的に手にした金額は100万ドルを大きく上回っていました。
しかし、五輪金のアイドルがスーパースターになれるかどうかは専門家の間でも「ウェルター級のレナードは高い知名度でプロデビューした。このまま面白い試合を勝ち続ける実力と、恐るべきライバルに恵まれる運、この二つの高いハードルが彼には待ち受けている」(歴史家:バート・シュガー)と懐疑的でした。
And in my very first defense, they made me fight Hagler. That’s a tough first defense. Nobody wanted to fight him. Hagler was the best I ever fought. He’s a southpaw who does everything so naturally both ways. He switches stances back and forth, and that gets a guy really mixed up. You can’t get comfortable.
初防衛戦の相手がハグラーだった。とんでもない防衛戦さ。ハグラーと戦いたい奴なんて、世界中探したって一人もいない。もちろん、私のキャリアで最強の相手だった。彼はサウスポーだったけど、右構えでもなめらかに戦えるスイッチヒッターだった。破格の強打者なのに巧いんだから、油断も隙もなかった。
Most of the time it would take me a couple of rounds to figure a guy out, and then I’d take over. But with him I was never able to do that.
私はいつも序盤のラウンドで相手の力量を測ってから攻撃に切り替えるんだけど、ハグラー相手にそんな余裕はなかった。
そして、次は苦労の末に掴んだ世界戦が〝レナード祭り〟の前菜にされたハグラーの回想。
“Marvelous” Marvin Hagler: I didn’t resent Leonard when we were both coming up. As a matter of fact, when Leonard was an amateur, I kinda liked him. I’d been following him since the Olympics, like everybody else.
当時はレナードのことを恨んでなんていなかった。私とレナードは同じ時代にアマチュアだったけど、彼はスーパースターだった。正直に言うと、私も彼に憧れていた。五輪で金メダルを獲ってから、彼の試合はしっかりチェックしてたけど、それって当時の米国なら誰でもそうだっただろう?
▶︎モハメド・アリが衰え、プロボクシングのリングでは陽が沈みましたが、五輪をクライマックスとするアマチュアボクシングはモントリオール1976からロスアンゼルス1984まで絶頂期を迎えます。
五輪予選は地元TVが生中継、五輪本番も米国選手が出場する試合は全て地上波生中継されたのです。
日本で喩えると〝世界〟甲子園のような熱狂だったのでしょう。
レナードとハグラー。
レナードとハグラー。
2人は、米国ボクシングのリングの光と影、太陽と月でした。




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フシ穴の眼
が
しました
フシ穴の眼
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