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この低次元で無礼なブログでは基本、敬称略で偉大なアスリートの方や、スポーツに関わるレジェンドを呼び捨てにしてしまっていますが、これは自分なりの敬意でもあります。



私事ですが、中学時代に出場していた野球大会で、他校の試合をネット裏から観戦していたとき。後ろで見ていた同年輩が自分のことを呼び捨てにしてるのが聞こえました。

「足が速い」「空振りが取れない」…聞いていて恥ずかしくなるというか、俺、すぐ前にいるけど顔はしっかり知らないのかなとドギマギする一方で、知らない人から「さん」「先輩」付けで呼ばれてないことがすごく誇らしく思えました。

瀬古利彦は「瀬古さん」じゃないし、江川卓は「江川さん」じゃありません。イチローも大谷翔平も井上尚弥もみんなそうです。

矛盾する言い方かもしれませんが、彼らを「さん付け」で呼ぶなど、おこがましい。



彼らは私にとってスーパーヒーロー、仮面ライダーやウルトラマンと同列かそれ以上の存在なのです。




ただ、彼らがほんの少しでも身近な存在だとしたら、事情が違ってきます。




だから、今回は例外とさせて下さい。

小出義雄さんが亡くなりました。80歳。

まだ早過ぎると思いますが、夢に向かって走り続けたその生涯は、親族の方に語ったという「いい人生だったな」という言葉通り、大好きな〝駆けっこ〟にとことん向き合って、陸上競技の歴史に大きなツメ跡を残された素晴らしく幸せな人生だったと思います。
 

実は、私は一度だけお会いしたことがあります。

いや、正確には二度です。

 

一度目は、小出監督が市立船橋高校の指揮を取っていたときに長野県の夏合宿で合同練習に参加させて頂きました。

当時の市船は高校中長距離最強チームで、特に中距離は大学生だった私たちが圧倒されていまいましたが、ヒリヒリするほど刺激になりました。

その指導は、量をとことん追求した練習を課すことで有名でした。

「量より質」とはいつの時代でも言われることです。

量を追求する指導者としては極めて例外的な事ですが、小出監督は根性論を振り回すことはけしてしなかったことでも知られていました。

これは、偉大な人には必ず見つける事ができる、常識では考えられない矛盾です。 

そのタイプの指導者とは思えない大らかさと、何よりアスリートファーストの精神に溢れた指導者だったのです。
 

容体を心配して電話してきた高橋尚子に「夢を叶えてくれてありがとな」と感謝の言葉を絞り出したという記事を読んで、まず選手ありきの姿勢で指導に取り組んだ小出監督らしいなと、しんみりしてしまいました。

 

個人的には、シドニー五輪女子マラソンの前日夜中にWADAのランダムテスト対象に高橋が選ばれたことに激怒「どうして高橋なんだ!不公平だろ!高橋の血を抜くなら(最大のライバルと目されていた)ロルーペの血も取れ!」と検査員に食ってかかったエピソードが印象に残っています。

あの名監督がランダムテストがどういうものか、知らなかったなんてはずがありません。

どう考えても、あれは小出監督一流のパフォーマンスだったと確信しています。

怒り狂う小出監督は、高橋尚子に「監督、大丈夫。私、勝つから。絶対に勝つから」と説き伏せられてようやくその矛先を納めたといいます。

 
最後の最後、ノミのひと彫り。臥龍点睛。

高橋尚子からその言葉を、その決意をどうやって引出そうか悩んでいた小出監督にとって、検査員の訪問は、もしかしたら大歓迎の僥倖だったのかもしれません。 



二度目にお会いしたのは、社会人になってローカルな市民マラソン大会に参加したときでした。

30㎞のロードレースでしたが、運良く優勝できました。

そのときのトロフィーと副賞のプレゼンターが小出氏だったのです。

副賞では、小出監督の著書「君ならできる」と、高橋尚子のサイン色紙も渡され、今でも大切に飾っています。

副賞を受け取る私の表情に何かを感づいたのか、小出監督に「あれ?どっかで会ってるよな?」と話しかけて頂きました。

私が10年以上も前に長野の夏合宿でご教授頂きましたと伝えると「そうだ、思い出した!〇〇君だ!どおりで、いい走りしてんのが一人いるなーって、感心して見てたんだよー」と笑って握手してくれましたが、私のことなど覚えていないのは明らかでした。

一瞬、賞状に目を落として私の名前を確認したのもわかりましたし、その合宿で小出さんは私のことを皆が呼んでいたあだ名でずっと呼んでくれていたので、本名を思い出すとは考えにくいのです。

それでも。覚えていなくても、とっさの機転でさも思い出したように振舞ってくれて、必ず褒めて選手を持ち上げる。

「ごめん、思い出せないなあ。君、名前はなんていったけ?」と正直に言われるよりもずっと、ずっと楽しい気持ちにしてもらいました。

これこそが、この偉大な指導者の最も卓越した才能だと思います。

そのとき「このおっさん、やっぱり俺のことなんて覚えてないやん」なんて感情は微塵もわかず「こんな俺にも気を使ってくれるんだ」と感動すらしました。

選手を乗せるのが上手いはずです。そういえば、あの夏合宿でもそうでした。


小出さんは天才的なモチベーター、おそらく日本スポーツ史上最高のモチベーターでした。 

 

苦学の末に、箱根駅伝に憧れ順天堂大学に入学したのが1961年、なんと22歳!のとき。

小出さんが、来たる東京五輪1964の巨大な輝きを眩しい目で見つめていたことは想像に難くありません。

マラソンファンを存分に楽しませてくれた生涯でしたが、来年の東京2020でもお元気な姿を拝見したかったです。