19世紀終盤に英国で誕生した近代ボクシングは、20世紀になると米国のプロモーターが新大陸でビッグファイトを開催、このスポーツのメインステージは大西洋を越えます。

現在のプロモーターは傘下にボクサーを抱えて、主にそのボクサーたちを戦わせるやり方で興行を打っていますが、当時のピュギリスト(拳闘屋)たちは今よりもずっとフリーな立場で、対戦が決まると興行主は競争入札によって試合を競り落としました。

20世紀初頭、ようやくフロンティア開拓を終えた米国には、まだまだ開拓民を受け入れなければならない無名の街がいくつもありました。

より多くの住民税や法人税を獲得したい町が、手っ取り早く街の知名度とイメージを上げる方法の一つがボクシングのビッグファイトを開催することでした。

発展途上国が五輪誘致するのと同じロジックです。

ザイールのモブツ大統領やフィリピンのマルコス大統領が、モハメド・アリのメガファイトを自国に引っ張り寄せたのも、この図式です。

無名の町を有名にしたい、そしてそのための資金もある…ゴールドラッシュで沸き返っていたネバダ州にはそんな町が競うようにビッグファイトを招致しました。

〝ラスベガス以前〟から、ネバダはビッグファイトと密接な関係を持っていたのです。
22Feb
リング誌創刊号(1922年2月号)のカバーはリカードとロンズデール卿でした。〝ボクシングの聖書〟はリカードが出資して創刊されたのです。

「天才興行師」と歴史にその名を刻むテックス・リカードが初めて表舞台に出たのは、その名もゴールドフィールドという砂漠の町に世界ライト級タイトルマッチを招致したときでした。

ときに1906年9月3日。この町で酒場と賭博場を経営していたリカードはデンマークの白人王者バトリング・ネルソンを説き伏せ、黒人テクニシャンのジョー・ガンスとのタイトルマッチにサインさせます。

24歳のネルソンは42勝(25KO)11敗13分。対するガンスは31歳、なんと150勝(95KO)10敗21分けと181戦をこなしていました。もちろん、諸説ありの数字です。

そして、当時の世界戦は45ラウンド制。

〝オールド・マスター〟の異名を持つガンスの技巧に、ネルソンはなすすべもなくポイントを失い続け、肘打ちやバッティングなど反則打を繰り返して対抗します。

そして、42ラウンド。ヤケになったネルソンはガンスの股間目掛けて思い切りのアッパーを撃ち抜きました。しゃがみこんで悶絶するガンス。

もちろん、ガンスの反則勝ち。

あれから112年。ゴールドフィールドは鉱脈を掘り尽くして、暑く乾いた風がひゅるひゅると吹き抜ける、ゴーストタウンとなっているそうです。
Tex_Rickard_in_1916
1910年、リカードはさらなるメガファイトを手がけました。世界ヘビー級タイトルマッチ、王者ジャック・ジョンソンvsジェームス・J・ジェフリーズです。

伝説の挿話が、これほどいくつも散りばめられたメガファイトは古今東西存在しません。

「一枚のステーキ」などボクシングを題材にした名作も多い作家ジャック・ロンドンは、共産主義に共鳴しながらも白人ボクサーを駆逐したジャック・ジョンソンを憎むレイシストの一面も持っていました。

このロンドンがジェフリーズにカムバックを促すのです。

「リングに戻って憎らしい黒人からタイトルを奪い返してくれ」。

19勝16KO無敗2分と、一度も負けることなく6年前に引退、故郷カルフォルニアで隠居生活を送っていたジェフリーズは〝グレート・ホワイトホープ〟に祭り上げられてしまいます。

この試合も当然、大物プロモーターたちの競りに掛けられました。

ジョンソンの試合をプロモートした経験のあるロスアンゼルスのトム・マッケニー、豪州のヒュー・マッキントッシュの二人のどちらかがが競り落とすと見られていましたが、リカードが破格の金額を提示して落札。

その内容はファイトマネーが、それぞれ10万1000ドル、それに試合の記録映画の利益の3分の2を加算した15万8000ドルを約束したものでした。

1971年以前の米国ドルは金本位制、1ドル=金1.5gと交換されていました。つまり、15万8000ドルは金23万7000gです。

今日10月20日現在の金相場は1g4734円ですから、日本円で11億2195万8000円です。

リカードはゴールドラッシュで一儲けしただけでなく、アラスカに金鉱を幾つも持っている大富豪トーマス・マッコールともコネクションを持っていたのです。

そして、白人vs黒人のシンボリックな試合は、当初サンフランシスコで開催予定でしたが、カリフォルニア州知事が「社会的な問題が深すぎる。どっちが勝っても暴動が起きる」と受け入れ拒否。

急遽、ネバダ州リノに屋外スタジアムを組み上げ2万人を飲み込みます。

そして、レフェリーはリカード。

試合は、一方的になります。

ジョンソンの有名なつぶやき。「ミスター・ジェフリーズ、大丈夫ですか?少し手加減しましょうか?」「すみませんね、一発右を打たせていただきますよ」…。

コーナーに帰ると余裕綽々でセコンドと爆笑するジョンソンに、大観衆のほぼ全ての白人は「試合は無効だ!止めろ!」と大合唱しますが、リカードは応ずることなく、最後は痛烈に倒されてロープを掴んで立ち上がろうとするホワイトホープを抱きかかえて、ジョンソンのKO勝ちを宣言しました。

このニュースを聞いた全米の黒人たちは、泣いて喜び、街を闊歩しました。

このお祭り騒ぎを「暴動」として鎮圧した警官が、黒人を射殺する事件が各地で起きてしまいます。

ジャック・ジョンソン。彼こそ、モハメド・アリの先駆けであり、その原型でした。



リカードは「ビッグファイト=ビッグマネー」という現代につながるボクシングのビジネススタイルを確立させました。

当時スポーツ記者だった、のちの人気小説家ポール・ギャリコは「ボクシングに興味がない人でもファイトマネー15万ドルなんて聞いたら、誰だっていてもたってもいられなくなる。そんなカネがどこから出てくるのか?そんなカネを稼ぐボクサーはものすごいヤツに違いないってね。それがリカードのやり方だ」と喝破しています。

アリにレナード、タイソン、デラホーヤ、メイウェザー、パッキャオ…彼らが注目を浴びる最もわかりやすいツールがカネでした。そして、それはリカードが100年前に考えたマーケティングをそっくりそのまま踏襲したものなのです。

ここまででも、十分に史上最高のプロモーターですが、リカードのクライマックスは1920年代です。

ドン・キングとタイソン、ボブ・アラムとメイウェザー、パッキャオ、デラホーヤとカネロ・アルバレス…傑出したプロモーターとスーパースターは愛憎渦巻く伴侶です。

リカードはローリングトゥエンティという激動の時代と、ジャック・デンプシーという史上最強のスーパースターを手に入れるのです。

そのクライマックスは、ジャック・デンプシー vs ジョルジュ・カルパンチェの世界ヘビー級タイトルマッチ。

ときは1921年7月2日にユージャージー州ニュージャージー市が組み上げた特設屋外スタジアムには8万183人の大観衆が詰めかけました。

王者デンプシーに挑むのはフランスからやって来た現役のライトヘビー級王者〝蘭の男〟ジョルジュ・カルパンチェ。

蘭の男にとってアウエーのはずの新大陸でしたが、ほとんどの観客が欧州の空気を身にまとった美男子に声援を送りました。

しかし、マナッサの虐殺者は容赦なく蘭の男を打ち倒し、フランスの夢は4ラウンド1分16秒で沈んでしまいました。
IMG_0085
カルパンチェが勝てば打ち上がるはずの蘭の花に模した薄紅色の花火を見ようと、パリでは多くのファンが夜空を見上げていました。

しかし、パリっ子たちが待ち焦がれた花火はいつまでたっても上がらず、漆黒の夜空にようやく煌めいたのは、フランス希望の花が撃ち落とされたことを伝える一筋の青い花火でした。

この試合は史上初めてラジオで実況生中継され、その後の興行収入で大きな柱となるCMが登場します。

そして、ゲート収入が史上初めて100万ドルを超えます。100年前の100万ドルです。

「トップボクサーは信じられない額の大金を稼ぐ」。テカードが確立した商法は、今なお生き続けています。

もし、初代〝マネー〟リカードがいなければ、ボクシングはもっと遥かに地味なスポーツになっていたことでしょう。