戦後しばらく、敗戦の記憶がまだ生々しく残る国民にとっての観戦スポーツを楽しむのは大相撲くらいのものでした。

野球は、プロ野球よりも六大学野球の方が人気が高い状況で、プロ野球が国民的な支持を集めるのは1958年に長島茂雄が読売巨人軍に入団するまで待つしかなかったのです。

しかし、大相撲も野球もきわめてドメスティックなスポーツです。

東京五輪まで、この国のスポーツファンが世界の舞台で戦う日本人を応援するなんて叶うことのない夢だったのです…ボクシングを除いては。

「日本に世界タイトル」は、ボクシング界のみならず全国民の悲願でした。

1952年5月19日(現在のボクシングの日)、ついに夢が現実になりました。特設リングが組みあがった後楽園球場に詰めかけたのは約4万人の大観衆。

当時3600円のリングサイド席は、7000円のプレミアが付いたといいますから、その熱気は21世紀の冷めた日本からは想像もできません。

世界王者が全員Undisputed Championだった、オリジナル8の時代。白井義男は世界フライ級のタイトルを4度も防衛しました。しかし、1954年11月26日フライ級史上屈指の名王者パスカル・ペレスに虎の子のベルトを奪われてしまいます。

そして、日本ボクシング界は長い夜を迎えることになります。ペレスは白井とのリマッチを5Rノックアウトで退け、米倉健志、矢尾板貞夫といった日本のホープの挑戦もことごとく跳ね返しました。
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「一流のボクサーになってみろ。でっかい車を乗り回して、でっかい風呂付きの屋敷に住めるんだぞ。おめぇだってそうなりゃご機嫌だろ?」(丹下段平)    

日本史上初の世界バンタム級タイトルマッチは、階級を上げた米倉健志がホセ・ベセラ(ガッツ石松がタイトルをもぎ取ったロドルフォ・ガト・ゴンザレスの従兄弟)に挑んだ1960年5月23日のことでした。

安保闘争が吹き荒れていた時代、全学連のデモ隊が首相官邸に抗議の乱入を決行した三日後、3万人の観衆を飲み込んだ後楽園球場が舞台です。

当初はその三日前の20日に予定されていたそうですが、雨天順延で23日までずれ込んだそうです。今なら信じられません。計量とかどうなったんでしょう?

王者ベセラは、半年前に対戦相手をその強打で死に至らしめていた64勝41KO4敗3分のスラッガー。対する米倉は7勝1KO3敗、プロでの経験差は絶望的にも思えました。

しかし、試合は米倉のアウトボクシングとカウンターが冴え渡り、ポイントを重ねていきます。中盤から王者が重たいボディブローで逆襲、米倉はダウン寸前のピンチに見舞われながらもなんとか最終15ラウンドのゴングに逃げ込みます。

6年ぶりに世界タイトルが帰って来た!米倉が前半の貯金を守りきったと確信した大観衆は、142-146、141-147、148-143のSDでベセラの手が挙げられると、怒り狂い、リングに向かって座布団が投げ込みました。
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ボブ・ディランの曲でも歌われたデイビー・ムーアも大きな壁でした。

さらに高山一夫は、世界フェザー級王者デイビー・ムーアに2度敗れ、フライ級王者ポーン・キングピッチも関光徳、野口恭を退け、日本人の世界挑戦は8連続失敗、チャンピオンベルトが白井の腰から離れてからなんと8年もの歳月が経っていました。

どんなに敗れ続けていても、世界タイトルマッチは年に一度のビッグイベントでした。

この8年に及ぶ長く凍てつく冬にも関わらず、ボクシングは週に10番組以上もTV中継されていました。

「あしたのジョー」の中で、矢吹丈が力石徹の6回戦をTVで観る場面が出てきますが、週に10番組も放映されていたら、4回戦でもオンエアされることがあったのかもしれません。

あの時代のボクシングファンに「21世紀には世界タイトルマッチでもTV放映されないことがある」なんて告げても信じてもらえないでしょう。

かつて、ボクシングの世界タイトルマッチは、大相撲の優勝決定戦やプロ野球の日本シリーズを遥かに凌駕する人気と、スポーツとしての格を持ち合わせていたのです。