米国西海岸のジムを手当たり次第に訪ね歩きましたが、五輪銀メダリストのゲンナディ・ゴロフキンを歓迎してくれる場所を見つけることは出来ませんでした。
プロデビューから18戦全勝15KOの凄まじいキャリアを積み上げて来たカザフスタン人でしたが、「あまりにも柔和な第一印象がファイターにふさわしくない」というのは瑣末なことで、実は深刻な問題を抱えていました。
急所を正確に狙い撃つ、GGGの冷酷な強打は、その被害者である対戦相手には骨の髄まで伝わっていましたが、多くのファン、専門家の目には「ジャブを起点に丁寧に試合を組み立てるテクニシャン」、つまり典型的なアマエリートの安全優先ボクシング、退屈なボクシングに映っていたのです。
2010年6月、ゴロフキンは、標高2000mを超えるビッグベアレイクのザ・サミットジムの門を叩きます。
運命の出会いが待っていました。アベル・サンチェスとの邂逅です。
ヨーロッパで燻り、軋んでいた歯車が、ビッグベアレイクで音を立てて、力強く動き始めました。
サンチェスは、手堅いゴロフキンのボクシングを変えることを提案しました。
「プロボクシングはファンを沸かせてナンボの世界だ。fan-friendly styleを目指すんだ。ドラマを見せるんだ!ショウを見せるんだ!」
GGGの口癖、「ビッグドラマショウ」はオリジナルではなく、サンチェス直伝なのです。
GGGの話を進めるには、驚くべき個性を放つボクシングトレーナー、サンチェスの物語は避けて通ることは出来ません。
【それがたとえ親子の間柄であっても、トップボクサーとトレーナーほど、ビジネスライクな関係はありません。しかし、どんな世界にも例外はあります。20年近くコンビを組むマニー・パッキャオとフレディ・ローチが有名ですが、GGGとサンチェスもまた利害関係を超えた世界で結びついているのです。】
1955年メキシコ、ティファナで8人兄弟の長男として生まれたサンチェスは、6歳の時に母親に連れられ家族でカリフォルニアへ移住しました。
「とにかく貧乏だった。肉類を口にできるのは、せいぜい週に一回。米と豆とジャガイモで命をつないでいた」。
朝7時から昼過ぎの2時までは学校に通い、授業が終わると毎日、義父がトラックで迎えに来ました。そして、夜中まで建設現場で働かされたのです。
「学校が休みの時は、早朝から現場だった。夏休みなんて知らない子供だったんだ」。
しかし、このサンチェス、しっかり者で生活力に満ちた子供でした。苛酷な建設現場での仕事をそつなくこなすだけでなく、建築の勉強にも励み、18歳で自分の会社を立ち上げてしまうのです。
彼はどんな仕事でも請け負い、会社は大繁盛しました。
彼が設計、建築した作品を、世界中のほとんどの人が一度は見たことがあるはずです…それもスクリーンの中で。80年代を代表するメガヒット映画「E.T.」、主人公のエリオット少年が住む郊外の街並みの家々は、彼の作品です。
その頃、サンチェスは仕事の傍ら、友人の勧めでボクシングを始めますが、仕事と両立できずに挫折。それでも、リングに未練があったのでしょう、友人が運営するジムでトレーナーを務めます。
しかし、仕事が忙しく、1982年にはボクシングから離れてしまいます。
ボクシングの神様は、よほどサンチェスを気に入ったのでしょう。3年後の1985年、運命の電話が鳴ります。
かつて指導していたボクサーの父親からでした。
「契約のこじれで息子がボクシングを辞めてしまった。お願いだ、息子を立ち直らせてくれないか?」。
父親は、愛する息子とサンチェスの相性が抜群だと信じていました。そして、それは大正解でした。
サンチェスが指導してから強豪相手に7連勝、1987年7月12日、この名コンビはフランスのボルドーにいました。
連勝のお祝いにボルドーワインを飲みに来たのではありません。サンチェスの弟子、ルペ・アキノは、WBCジュニア・ミドル級5位にまでランキングを上げ、なんと世界タイトルマッチまで漕ぎ着けたのです。
しかし、相手が悪すぎます。7ヶ月前に、あの野獣ジョン・ムガビを3ラウンドKOで屠って王者に就いたデュアン・トーマスです。当時のボクシング界を席巻していたエマヌエル・スチュワード率いるクロンク・ジムのホープ中のホープでした。
戦前の予想もオッズも大きくトーマスに傾いていたこの一戦、サンチェスは「スロースターターのトーマスは格下相手に慎重に立ち上がる」と確信、「最初の2ラウンド、6分間で全てのエネルギーを使い果たせ」と指示します。
そして、2ラウンド、アキノの左フックがクリーンヒット、トーマスがキャンバスに沈みます。しかし、指示通りに、全開で飛ばしたアキノのエネルギータンクは、このとき空っぽでした。
そして、トーマスは立ち上がってきました…。
ここで、サンチェスの思惑通り、「勝てる!」という確信的な希望が湧き出たアキノの体の中で、不思議なことが起きます。隠されたもう一つのエネルギーのダムが開放されたのです。
トーマスの反撃にもひるまず、最終回には2度目のダウンを奪ってユナニマスデジション、番狂わせを起こしたのです。
歓喜に咽ぶアキノを、荒々しく抱きしめるサンチェス。
「まさかこの俺が、世界チャンピオンを育てられるなんて!」。
しかし、アキノはこの後、16人も続くアベル・サンチェスの世界チャンピオンという作品群の第1号でしかありませんでした。
帰国すると、サンチェスの評判を聞きつけたテキサス出身の天才兄弟がその教えを待っていました。テリーとオーリン、のちにジュニア・ミドル級、クルーザー級でチャンピオンになるノリス兄弟です。
プロデビューから18戦全勝15KOの凄まじいキャリアを積み上げて来たカザフスタン人でしたが、「あまりにも柔和な第一印象がファイターにふさわしくない」というのは瑣末なことで、実は深刻な問題を抱えていました。
急所を正確に狙い撃つ、GGGの冷酷な強打は、その被害者である対戦相手には骨の髄まで伝わっていましたが、多くのファン、専門家の目には「ジャブを起点に丁寧に試合を組み立てるテクニシャン」、つまり典型的なアマエリートの安全優先ボクシング、退屈なボクシングに映っていたのです。
2010年6月、ゴロフキンは、標高2000mを超えるビッグベアレイクのザ・サミットジムの門を叩きます。
運命の出会いが待っていました。アベル・サンチェスとの邂逅です。
ヨーロッパで燻り、軋んでいた歯車が、ビッグベアレイクで音を立てて、力強く動き始めました。
サンチェスは、手堅いゴロフキンのボクシングを変えることを提案しました。
「プロボクシングはファンを沸かせてナンボの世界だ。fan-friendly styleを目指すんだ。ドラマを見せるんだ!ショウを見せるんだ!」
GGGの口癖、「ビッグドラマショウ」はオリジナルではなく、サンチェス直伝なのです。
GGGの話を進めるには、驚くべき個性を放つボクシングトレーナー、サンチェスの物語は避けて通ることは出来ません。
【それがたとえ親子の間柄であっても、トップボクサーとトレーナーほど、ビジネスライクな関係はありません。しかし、どんな世界にも例外はあります。20年近くコンビを組むマニー・パッキャオとフレディ・ローチが有名ですが、GGGとサンチェスもまた利害関係を超えた世界で結びついているのです。】
1955年メキシコ、ティファナで8人兄弟の長男として生まれたサンチェスは、6歳の時に母親に連れられ家族でカリフォルニアへ移住しました。
「とにかく貧乏だった。肉類を口にできるのは、せいぜい週に一回。米と豆とジャガイモで命をつないでいた」。
朝7時から昼過ぎの2時までは学校に通い、授業が終わると毎日、義父がトラックで迎えに来ました。そして、夜中まで建設現場で働かされたのです。
「学校が休みの時は、早朝から現場だった。夏休みなんて知らない子供だったんだ」。
しかし、このサンチェス、しっかり者で生活力に満ちた子供でした。苛酷な建設現場での仕事をそつなくこなすだけでなく、建築の勉強にも励み、18歳で自分の会社を立ち上げてしまうのです。
彼はどんな仕事でも請け負い、会社は大繁盛しました。
彼が設計、建築した作品を、世界中のほとんどの人が一度は見たことがあるはずです…それもスクリーンの中で。80年代を代表するメガヒット映画「E.T.」、主人公のエリオット少年が住む郊外の街並みの家々は、彼の作品です。
その頃、サンチェスは仕事の傍ら、友人の勧めでボクシングを始めますが、仕事と両立できずに挫折。それでも、リングに未練があったのでしょう、友人が運営するジムでトレーナーを務めます。
しかし、仕事が忙しく、1982年にはボクシングから離れてしまいます。
ボクシングの神様は、よほどサンチェスを気に入ったのでしょう。3年後の1985年、運命の電話が鳴ります。
かつて指導していたボクサーの父親からでした。
「契約のこじれで息子がボクシングを辞めてしまった。お願いだ、息子を立ち直らせてくれないか?」。
父親は、愛する息子とサンチェスの相性が抜群だと信じていました。そして、それは大正解でした。
サンチェスが指導してから強豪相手に7連勝、1987年7月12日、この名コンビはフランスのボルドーにいました。
連勝のお祝いにボルドーワインを飲みに来たのではありません。サンチェスの弟子、ルペ・アキノは、WBCジュニア・ミドル級5位にまでランキングを上げ、なんと世界タイトルマッチまで漕ぎ着けたのです。
しかし、相手が悪すぎます。7ヶ月前に、あの野獣ジョン・ムガビを3ラウンドKOで屠って王者に就いたデュアン・トーマスです。当時のボクシング界を席巻していたエマヌエル・スチュワード率いるクロンク・ジムのホープ中のホープでした。
戦前の予想もオッズも大きくトーマスに傾いていたこの一戦、サンチェスは「スロースターターのトーマスは格下相手に慎重に立ち上がる」と確信、「最初の2ラウンド、6分間で全てのエネルギーを使い果たせ」と指示します。
そして、2ラウンド、アキノの左フックがクリーンヒット、トーマスがキャンバスに沈みます。しかし、指示通りに、全開で飛ばしたアキノのエネルギータンクは、このとき空っぽでした。
そして、トーマスは立ち上がってきました…。
ここで、サンチェスの思惑通り、「勝てる!」という確信的な希望が湧き出たアキノの体の中で、不思議なことが起きます。隠されたもう一つのエネルギーのダムが開放されたのです。
トーマスの反撃にもひるまず、最終回には2度目のダウンを奪ってユナニマスデジション、番狂わせを起こしたのです。
歓喜に咽ぶアキノを、荒々しく抱きしめるサンチェス。
「まさかこの俺が、世界チャンピオンを育てられるなんて!」。
しかし、アキノはこの後、16人も続くアベル・サンチェスの世界チャンピオンという作品群の第1号でしかありませんでした。
帰国すると、サンチェスの評判を聞きつけたテキサス出身の天才兄弟がその教えを待っていました。テリーとオーリン、のちにジュニア・ミドル級、クルーザー級でチャンピオンになるノリス兄弟です。
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