ジョニー・タピアが米国で大きな共感を持って受け入れられている背景には、アメリカの暗部を凝縮したような生涯を送ったからでしょう。

YouTubeでも見られるHBOのドキュメンタリーは秀逸でした。

日本人ボクサーにも、いいえ、世界中のボクサーの誰にだって、この過酷な職業を選んだ、選ぶしかなかった理由が必ずあるはずです。

マニー・パッキャオやマイク・タイソンがプロボクサーとして成功する物語は、あまりにもティピカルです。二人とも生まれた環境の劣悪さに激しく抵抗しながら戦い抜いて、栄光のリングに辿り着きました。

パッキャオは「最初は自分の母親を助けたい、その一心だった。その次は家族を、友達を助けたい。苦しんでいる身近な人を見るのは、とにかく耐えられなかった。自分の収入や影響力が大きくなるに従ってその〝身近〟の距離はどんどん大きくなっていった。国を助けたいと思うようになるのは、自然な話だった」と、その二つの拳で周囲の人を幸せにしたかっただけだと言い切ります。

タイソンは最近のBBCのインタビューに「ヘビー級の世界王者になるということは、世界で一番悪魔の囁きが聞こえる場所に立つということだ。お金、名誉、女、あらゆる誘惑が信じられないボリュームで押し寄せてくる。(スター王者になった)アンソニー・ジョシュアがこれから戦うのはリングの上だけじゃない、リングの外の誘惑、悪魔にも打ち勝たなくてはならない。私は(父親代わりだった)カス・ダマトを喜ばせたいだけでボクシングに全身全霊を捧げた。彼がいなくなった私に、悪魔に勝つ術などなかったんだ。もしかしたら勝つ必要すらも…悲しくて情けない話さ」と、何も持っていなかった無名の自分を大切に扱ってくれたダマトの愛に応えたかったと答えます。

では…タピアの場合はどうだったのでしょうか。

父親は自分が生まれる前に銃殺され、最愛の母親は8歳の時に眼の前で誘拐され乱暴された挙句に、全身滅多刺しの死体となって彼の眼の前に帰ってきました。

タピアのリングには、パッキャオのように自分の拳で救いたい愛する家族も、タイソンのように人生の恩人に報いる理由もありませんでした。

後年、刑務所から出てきた男がDNA検査の結果、父親に間違い無いと診断されます。

「おもしろい話だろう?俺は父親は殺されたと教えられた。どういうことだ?俺が4度も医者から死亡診断を下されても、ことごとく生き返ったのは、まさにこの父親のDNAを受け継いでたからか?とんだ笑い話だ」。

自分の身に置き換えたら、考えたくない話です。母親が彼を妊娠していた時に、父親は殺されたのではなく、犯罪を犯して懲役刑を食らっていたというのなら、まだ救いがあるのですが…。

殺された〝父親〟は、タピアの本当の父親ではなかった。男を取っ替え引っ換えしながら生きていた母親にとっては、自分の父親の、次の男が殺されたのだと、思い至ったときのタピアの心情は察して余りあります。
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【後年、全身くまなく刺青だらけになるタピアですが、1994年(27歳)はまだ、胸の真ん中に一体のキリスト像が彫られているだけでした。その後、やはりキリスト像を中心に、数え切れない神々の刺青が彼の肌に彫り込まれていきます。何人もの神の姿を必死に体に掘り込むことで、彼は何から救われたかったのでしょうか?彼は何を祈っていたのでしょうか?…。】

9歳になったタピアは、叔父に無理やりボクシングを始めさせられます。あろうことか大会でタピアに金を賭けた叔父は、タピアが負けたら酷い暴力を振るいました。

彼にとってのボクシングは、誰かを助けたい、誰かに恩返ししたい、そんな生温いファンタジーとは程遠いものでした。

しかし、タピアにとってボクシングは間違いなく天職でした。

たった9年の人生でも煉獄で生き抜いてきた少年の凶暴性は際立っていました。

そして、ドラッグと暴力と怒りと悲痛にのたうちまわるしかない毎日。そして何より母親を失った悪夢に苛まれ続けるタピアにとって、リングの上だけが、地獄の炎から逃れることが出来る唯一の場所だったのです。

BoxRecによるとアマ戦績は「50-12 or 101-21 with 65 knockouts (sources differ) 」=「50勝12敗、あるいは101勝21敗(65KO)。諸説ある」。

叔父に強いられた不法な試合もあって、正確な戦績のカウントができないのでしょうか。

ロス五輪の国内西地区予選では決勝で涙を飲みましたが、1985年にはゴールデングローブのフライ級で優勝するなど、アマエリートと言って差し支えない成績を残します。

トップランク社で長らくマッチメイカーをつとめるブルース・トランプラーも「素晴らしいアマチュアだったのを覚えているが、six-figure(6桁=数十万ドル)の契約金を積むまでの選手には見えなかった。若い才能を見抜くことには自信があったが、タピアだけは私の見当違いだった」と、ニューメキシコ大学の構内で執り行われた彼の葬儀で語っています。

そして、1988年プロデビュー。ここから無敗の快進撃を続けます。

しかし、悪魔は彼の元を一時も離れることはありませんでした。

わずか2年で22戦全勝1分、素晴らしい成績で「未来の世界王者」と嘱望されますが、ドーピング検査でコカインの陽性反応が出てしまいます。

「もう2度とドラッグには手を出さない」。彼は、その後、何度も何度も破ることになる、薄っぺらい約束をします。

1990年10月から長いブランクを作ってしまいますが、リングに戻る1994年にはテレサと結婚します。

しかし、結婚式当日の夜だというのにタピアは多量のバイコディン(不法売買される、中毒性の強い鎮痛剤)を自ら投与して、意識を失い、翌日、最初の死亡診断を受けてしまうのです。

テレサは、この巨大な闇を抱えながら悶え苦しむタピアを生涯支えていこうと決め、その通り、立派に添い遂げることになります。

【MI VIDA LOCA(MY CRAZY LIFE)。「誰か教えてくれよ。この世に生まれたことが、幸運だったのか不運だったのかが、わからないんだ。父親は知らない、8歳で母親が無残に殺された姿をこの目で見た。医者からは4度も死亡宣告された。何度も死にかけたが、それでも俺は生きている。大金を手にしたことも、一文無しになったこともある。みんなから賞賛もされたし、酷い侮辱も受けた。そんな人生の中でも、世界王者に5度もなれた。…なぁ、誰でもいいから、教えてくれよ。俺は運がいいのか、それとも運が悪いのか?】

カムバックしたその年に、空位のWBO世界ジュニアバンタム級、1997年には同郷のダニー・ロメロを下してIBFタイトルも吸収。翌1998年には、ナナ・コナドゥからWBAバンタム級王座を奪取。無敗街道は続きます。

コナドゥ戦の後にはタピアらしいエピソードがあります。試合が終わって、アトランティックシティのボードウォークをタピアがトランプラーと勝利の余韻に浸りながら夜の海辺を歩いていた時のことです。

みすぼらしい年老いた物乞いに、彼は握れるだけの紙幣をつかんで手渡したのです。

トランプラーは「私たちが老人から離れると、すぐに5人の男が老人を取り囲み金を奪おうとしたんだが、タピアはサッと戻るとその5人を失神させたんだ。腕に覚えのあるチンピラだったようだけど、何しろ相手が悪すぎた。一流ボクサーのパンチは正確に、しかも強烈に人間の急所を撃ち抜くからね。本当にあっという間の出来事だった。あの老人もチンピラも、タピアだとは思ってなかったんだろうね」と笑いながら回想しています。

しかし、初防衛戦でポーリー・アヤラ(辰吉丈一郎との一戦はアヤラには不運でしたね)にプロ初黒星を喫してしまいます。

この後、タピアはまた薬物の過剰摂取とアルコール中毒で度々入院、さらに自殺未遂まで重ねてしまいます。
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その度に、妻テレサは、搬送される救急車の中でタピアに「ボクシングで何度負けたって構わない、でも自分にはもう負けないで、私がずっとそばにいるから!」と、中毒のショックで動かない夫の胸で泣き叫びました。

このまま、暗い闇の底に沈んでしまうように見えたタピアでしたが、あるボクサーの存在が、タピアの心の中で徐々に大きく膨らみ始めます。

「あいつに勝つことが出来れば、俺は、ついに救われるかもしれない」。

その男の名は、マルコ・アントニオ・バレラ。ボクシングの世界で、当代きってのスーパーヒーローでした。