勝負の分かれ目で、人間力は意味があるのか?

将棋、囲碁の世界では大勝負になればなるほど、土壇場になればなるほど、それまでに培ってきた人生経験、人間力が最後に勝敗を決する、そういうことがよく言われます。芸能の世界でも大きな病気を乗り越えたり大失恋を体験した歌手の声には艶が出るなんて言うのも同じことかもしれません。

人生で蹉跌を舐めた人間はスポーツや将棋の世界でも、大一番で力を発揮する。夢のある話です。しかし、病気になったり恋愛しない人工知能が、一流の棋士に勝ってしまう時代です。野球なら野球、将棋なら将棋の世界で、様々な経験を積むことは大きな意味があるでしょう。しかし、その競技と関係のない実生活での艱難辛苦、重篤な病気を患ったり、大きな借金を背負ったり、大切な人を失ったり、そういう体験は反骨のバネになることはあるでしょうが、直接的な技術の向上には何の役にも立ちません。

人生で苦労したことが競技の肥やしになるわけもなく、その時間を練習に費やした方が優れたアスリートへの近道です。そのはず、です。

ダニエル・ジェイコブスという才能あふれる30歳のボクサーがいます。

2006年、19歳で全米選手権のミドル級で優勝するなどアマチュアで137勝7敗という驚異的な成績を残して、ゴールデンボーイプロモーション(GBP)から鳴り物入りでプロデビュー、破竹の勢いで無敗のまま北米ミドル級王座を奪取。2010年にはついにWBOミドル級王者決定戦に出場。有利の予想通りに4ラウンド終了時で3人のジャッジが揃って2ポイントリードの採点…と、ここまでが人生の絶頂、ここから地獄の底に叩き落とされます。

5ラウンドにディミトリー・ピログの右フックを受けて痛烈なダウンを喫してストップ負けしてしまうのです。期待のホープが悲劇的な敗北を喫することは決して珍しいことではありませんが、地獄の底はここではなく、もっともっと深いところで暗い口を開けていました。それから1年も経たない2011年5月にガンに罹っていると診断されてしまうのです。それも脊椎の骨肉腫です。ボクサー生命どころか、人間としての命そのものが大きな危機を迎えるのです。

若者は大手術に臨んで、背中に大きなジッパーが付いたような痛々しい傷跡を負ったことと引き換えに、ガンに打ち勝ちました。そのニュースを聞いた時、ボクシングファンはジェイコブスが最強の敵を打ち破ったことに拍手喝采を送りました。勇気あるダニエルにこれからも幸あれ、と。もちろん、それは第二の人生もがんばれというエールでした。

しかし、ジェイコブスはリングに上がります。そして周囲の心配をよそに、彼はMIRACLE MAN(奇跡の人)と呼ばれ、勝ち続けます。2015年にはミドル級最強候補の一人、ピーター・クイリンを不利予想を跳ね返して、何と1ラウンドTKOで屠りました。この時点では、もはやジェイコブスを大病からの病み上がりと心配する声は聞こえません。ミドル級のトップスターの座に舞い戻ったのです。


  【明日、いよいよゴング!】

そして、いよいよ明日、ニューヨークはマジソンスクエアガーデンでミラクルマンはWBA/WBC/IBF/IBOの4団体のベルトをかけて世界タイトルマッチのリングに挑戦します。ここまで32勝のうち29がKO、ピログに敗れたのが唯一の1敗です。それなのに試合前のオッズは1−6で圧倒的不利。ESPNやリング誌でも、専門家や現役ボクサーはほぼ全員がジェイコブスのKO負けを予想している有様です。

それもそのはず、挑戦する相手が悪すぎます。チャンピオン、ゲンナディ・ゴロフキン( GGG)も36戦全勝33KOととんでもない戦績ですが、数字だけなら見劣りしません。しかし五輪銀メダルとアマチュア実績で上回るGGGのボクシング技術は非常に高く、プロでの対戦相手の質もGGGの方が上、なおかつ世界戦は強奪した試合から数えて18連勝、その全てをKOで飾っているのですから。

それでもジェイコブスの強打がヒットすれば誰でも倒れると期待したいところですが、このGGGは強打者なのに鋼鉄のアゴまで持っているんです。これまでダウン経験がないばかりが、大きくグラついたこともありません。GGGと長年連れ添う名匠、アベル・サンチェスは「今まで多くのボクサーを見てきたがGGGのアゴの強さは図抜けている。ジェイコブスが攻撃的に攻めてきたらそこに必ず隙が生まれる」と自信満々です。

KO勝利のテープを23に伸ばしているGGG、12で追うジェイコブス。両者の強打、好戦的なスタイルから、KO決着しかないとみられていますが、異様に打たれ強いGGGが沈むシーンは想像できません。一方、ピログ戦で脆さを見せたジェイコブスが、GGGの拳を12ラウンド36分間に渡ってかわし続けることも想像できません。

ジェイコブスは記者会見で「ゴロフキンの事は尊敬している。しかし私はガンと闘って、ここにいる。怖いものは何もない」と静かに語りました。

確かに脊椎の骨肉腫よりも強大な敵はまずいないでしょう。ジェイコブスはその最強の敵に確かに勝ちました。しかし、その偉大な人生経験はリングの中には持ち込めません。リングの中にあるのは冷徹な現実だけです。

それでも、そういうことがわかっていても、すでに1度奇跡を起こしたジェイコブスです。2度目がないと言い切れるでしょうか。

勝敗予想。まさかの判定にもつれ込んで、僅差の勝負をジェイコブスがものにします。