俺がときの政府を率いる総理大臣なら、俺の国民栄誉賞を独断と偏見で決定する。

まず、内閣府の規定を改正する。

「この表彰は、広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えることを目的とする」➡︎「この表彰は、俺が敬愛し、俺に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えることを目的とする」。

さらに外国人枠だって新設する。


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【俺の国民栄誉賞】


マービン・ハグラー…米国のボクシングに惹き込まれたのはマーベラスのおかげである。彼がいなければ、スポーツ・イラストレイテッド誌やリング誌に目を輝かせ、その延長上でタイム誌やニューズウイーク誌などまで貪り読むことはなかった。

ハグラーがいなければラスベガスのカジノが支払う招致料とクローズド・サーキットによって肥大化したボクシングビジネスの光と闇、認定団体の下劣、ボブ・アラムの老害っぷりなんかを知ることもなかった。もちろん、次から次へと現れる魅力的な強敵をことごとく破壊してゆくUndisputed Championの感動的なまでの強さに魅せられた。

もしも、私の高校時代の米国ボクシングが現在のような悲惨な状況であったなら、マーベラスがいなかったなら、1ミリの興味も抱かなかったのは間違いない。




ランディ・バース…普通の人は道頓堀にカーネル・サンダースを投げ込んだり、自ら飛び込んだりしない。

では、彼らは普通の人ではなかったのか?もちろん、そうではない、彼らは常識をわきまえた普通の人間だったのである。来る日も来る日もだらしなく負け続けるタイガースを声が枯れるまで応援していた、身の程をわきまえた謙虚な常識人だったのである。

そんな常識人が、いつもいじめられていた槙原寛己からバックスクリーン3連発なんて見せられたら、幻覚だと思っても仕方がない。バース様は巨人も捻り潰された西武まで粉砕したが、あれが現実だとすぐに認識するには、常識人たちはあまりにも辛い思いを積み重ね続けた。

カーネルを投げ込まれたKFCには本当に申し訳ない思いで胸が張り裂けそうだ。毒々しい液体をたたえる道頓堀に身を投じたことで、警察や関係者の方々には多大なご迷惑をかけてしまった。しかし、彼らは日陰に生きるおとなしい常識人だったのだ。

決して繰り返してはいけない事件だったのかもしれないが、バース様のおかげでKFCはカーネルの管理体制を徹底し、道頓堀の警備体制には全く新しい斬新なマニュアルが完成した。

バース様は阪神地区では神としてあまねく崇められているが、国としてもその認識を全国民にしっかりと徹底させたい。




マイク・タイソン…ペリー来航はもちろん、ビートルズ来日すら知らない、知らないからどうでもいい私だが、タイソンの来日フィーバーがいかにすさまじかったかは鮮明に記憶している。はっきり断言しよう。タイソンはペリーやビートルズよりも衝撃的だった。

相撲部屋を訪問するなどの公式行事はいうまでもなく、早朝のロードワークで迎賓館の周囲を走った、千疋屋でメロンを買った、はちみつを探している…その一挙一動が日本中から注目され、ニュースや夕方の情報番組で各局が競うように報道、トヨタやサントリーなどのCMも大量投下された。

来日期間の1ヶ月ほどの出来事とは言え、どうでもいいことまで事細かく報道されたことを考えると、タイソンの瞬間最大風速は、今の大谷翔平を超えていたのだ。




辰吉丈一郎…この浪速節を、井上尚弥や井岡一翔らと比較する人はいないかもしれないが、それはあくまでアスリートという狭量な視点に限定しての話だ。

辰吉の試合は日本タイトルマッチでもノンタイトルでも地上波で生中継された。具志堅用高のような国民的英雄ではなかったが、カリスマという物差しなら井上尚弥はもちろん、具志堅もファイティング原田も凌駕していた。

敗北を重ねてもなお、人気の熱が冷めないどころかその温度は上がっていた。だから、カリスマなのだが。

ビッグファイトになると、プロボクサーの入場曲は凝りにこって流されるが「死亡遊戯」はCDでかけたオリジナルのメロディー。しかし、あれ以上の旋律が他にあるか?もっと言えば、あれを使える他のボクサーがいるか?

「(米国で需要のない軽量級にもかかわらず、人気階級のライト級でも活躍できる)とドン・キングが惚れたシリモンコン・ナコントンパークビューへの挑戦に、多くのファンが集まったのはカリスマの死に様を見届けるため、それだけのためだった。あの夜の大阪城ホールにはイチローも駆けつけていた。

そして、カリスマはリングを去らない。まだ、現役だ。「国民栄誉賞を贈る」と伝えたら「そんなん、要らんわ」ときっと断るだろうから、受賞は公にはせずに賞状を菓子折りの底にでも入れてヤマト便か郵パックで送ろう。見つけても「なんか変な説明書が出てきたぞ」とゴミ箱に捨てるだろうが。




マニー・パッキャオ(1回目)…この人は「もらえるものはなんでももらう。まさか認定料とか取らないだろうな?」と脳天気に笑って日本の国民栄誉賞を受け取りそうだ。

2003年11月25日、あのときのマルコ・アントニオ・バレラはゴールデンボーイ・プロモーションと軽量級では破格の契約を結んだばかりで、その評価は天井知らず。

そして、舞台は何もかもがバレラのためにしつらえられたテキサス州サンアントニオのアラモドーム。360度から浴びせられる強烈なブーイングに、花道を歩くフレディ・ローチは「これは大変だ、試合が終わったら大急ぎで裏口から逃げ出さないといけない」とパッキャオに声をかけた。

信じられないことに、あのコンビは勝利を確信していたのだ。そして、太平洋の遥か彼方、フィリピンでは9000万人の国民が衛星中継のテレビの前で勝利を祈っていた。




マニー・パッキャオ(2回目)…2回目も「タダならもらう、今回も認定料はないだろうな?」と確認してから、受け取ってくれそう。

2008年12月6日、MGMグランド・ガーデンアリーナ。バレラ戦は「全盛期のメキシコのスーパースターをKOした」という点で、世界のボクシング界に「ファイティング原田vsエデル・ジョフレ」以上のインパクトを与えたが、オスカー・デラホーヤ戦はそれをはるかに上書きする驚天動地の出来事だった。

PFP的には小さな波だったが、ショック・ザ・ワールドならボクシング史上最大級。「誰がこんな展開を予想しましたか!?」と香川照之を半狂乱にさせたメガファイト。

リーマンショックで景気は急降下している最中でもPPVは記録的な売り上げをマーク。

バレラ初戦と同じように圧倒的不利と見られていたが、違ったのは観客の歓迎ぶり。どんな相手からのオファーでも蕎麦屋の出前のように二つ返事で引き受け、ファンが喜ぶ真っ向勝負のメキシカンスタイルを繰り広げるパッキャオは、米国で最も人気のあるファイターになっていた。

ブーイングを浴びたのは、この試合に向けて米国とメキシコを二股にかけるような「アメリカの息子」という自叙伝を上梓、フロイド・メイウェザーとの再戦がまとまらないからと小さなパッキャオを選んだデラホーヤの方だった。







ーーー外国人オンリーにしようと思ったのに、浪速節が紛れ込んでしまった…