UFC 328: Van cements his Champ status 

ラッキーな勝利でタイトルホルダーとなったと考えられたジョシュア・ヴァンだったが、彼はオクタゴンの中で自分が王者に相応しいことを見せつけた。



昨年12月6日、ラスベガス・Tモバイル・アリーナで開催されたUFC323。

大番狂せでアレッシャンドリ・パントージャからUFCフライ級王座を奪い獲ったヴァンは、その2日後にヒューストンに眠る父親の墓を訪れた。

「父親に報告したい良いことを掴み取ったときには、いつもお参りするんだよ。僕はいつも…父親を失望させるだけだったから。死んじまってから、いくらお参りしたって何にもならないことなんてわかってる。でも、これしかできないんだ」。

24歳のミャンマー人はUFCに参戦が認められてから、あっという間に9勝1敗の戦績を積み上げ、ついにタイトルを極める。

23歳での戴冠は、あのジョン・ジョーンズに次ぐ史上2番目の若さだった。

ジョシュア・ヴァンは、東南アジアのミャンマーで生まれた。東南アジアの国々はどこも貧しく、その底辺は人権意識の高い欧米人には想像を絶する。

ちなみに、ミャンマーはそんな東南アジアの中で内戦と不安定な政情にのたうちまわっている、最もひどい国の一つだ。

ヴァンは、そこで生まれた。

父親はこのままだと、家族は餓死するか政府から殺されるか、いずれにしても死ぬのを待つだけだと、脱出を決断する。母親と私と妹に「必ず連絡する」と約束して、父親は2人の姉をつれて姿を消した。

ヴァンが9歳のときだった。

携帯電話を持っていない残された家族は、不安に怯えながら父親の連絡を待つしかなかった。

「何が起きているのかよくわからなかったけど、子供でも物事が良くない方向に行ってることだけはよくわかったよ」。

父親から連絡があったのは1年後。マレーシアの難民キャンプで母親とヴァン、妹を迎えた。そして、ヴァンが12歳のとき、キャンプから出なければいけなくなった家族は、親戚がいる米国へ。

最初に移住したのはアリゾナ州ヒューストンだったが、英語など全く理解できないアジア人のヴァンは容赦ないイジメにあった。

ミャンマーで無敵の喧嘩小僧だったヴァン。彼の沈黙と我慢が限界を超えると、唯一話せる言語である肉弾の暴力で彼らに答えてやった。

弱いものたちがたそがれ、さらに弱いものを叩くーーーそれはブルーハーツの歌だけではない。

ヴァンはたちまち地域の異分子となり、弱い立場のミャンマー人たちはヴァンの家族を「ここから出ていってほしい。でないと私たちが住みにくくなる」と追い出した。

家族はアイオワ州の叔母の家に身を寄せたが、そこでもヴァンは虐げられると、どんな国だろうがはっきり伝わる例の言語を使うしか、彼には出来なかった。

口と舌で発音される「なめんなよ!」という言葉は、肉弾の暴力として〝翻訳〟された。

ヴァンの素直な性格と、トラブルの全てが売られた喧嘩であることを理解していた叔母は彼の将来を案じた。

Challenged him to fight for the pride of his country and his family!

叔母は優しく笑いながら、ヴァンに聞いた。

「家族は好きか?」。

ヴァンは即答した。「大好きに決まってるじゃないか!家族のためなら死んでもいい」。

「ミャンマーは好きか?」。

やはり、ヴァンは即答した。「大好きだ。あそこでお父さんとお母さんが僕を産んでくれたんだ。なにがあったって、嫌いになれるわけがないじゃないか」。

叔母は笑うのをやめると、真剣な眼差しでヴァンを見つめた。

「ストリートファイトはやめなさい。国と家族のために戦いなさい。あなたの思いが本物か偽物なのか、私が見届ける」。

ヴァンはMMAのジムがあるヒューストンに舞い戻った。

誰も知らない東南アジアの国から逃げてきた10代の少年が、米国では誰でも知っている格闘技の王様になるーーーそんな山岳小説の序章のページがめくられたことを、そのときは誰一人として知る由もなかった。

ストリートファイターが、優れたボクサーやMMAのファイターになれるとは限らない。当たり前だが、そうではないケースがほとんどだ。ストリートのいじめっ子はリングやオクタゴンでは全く役に立たない。

しかし、売られた喧嘩しか買わないヴァンは違った。性格は「冷静で凶暴」「知的で勇敢」、MMAの必要十分条件を完全に満たして、飲み込みも早かった。

彼を初めて見た指導者たちはそろって同じことを口にした。「前はどこのジムにいた?」「有名なイベントに出場したことがあるだろ?」。

ヴァンは訊かれるたびに同じ答えを繰り返した。

「ここが初めて。まだ公式戦は戦っていない」。



2020年、ヴァンは19歳でアマチュアデビューを飾ったが、父親は3年前に他界していた。ヒューストンの墓の前でヴァンは泣きじゃくった。

「遅くなってごめんなさい。迷惑ばかりかけてごめんなさい。お父さんがアメリカに連れてきてくれたおかげで、やっと道が見えてきました」。

そのわずか3年後にヴァンはUFCと契約、そのとき墓前で「いつか必ずチャンピオンベルトを持ってくるからね」と父親と約束した。

ミャンマーの喧嘩小僧は「いつかの約束」を、まさかまさかの1年5ヶ月でやってのけた。

ヴァンの心の中にはいつも家族がいた。もちろん、父親も。そしていつもミャンマーのために戦ってきた。

しかし、2023年のUFCデビューではロシアのウクライナ侵略の影響を受けてオクタゴンへの国旗持ち込みが禁止されてしまった。

ヴァンが叔母に「私が母国を思う気持ちは本物です、国旗が持ち込み禁止になったのです」と電話で伝えると、叔母はどこまでも粋だった。

「え?何を勘違いしているの。私には、あなたがオクタゴンでミャンマー国旗を振り回している姿がよく見えましたよ」。

国旗持ち込み禁止は解除、申請制になったが、ヴァンの申請は5度も拒否され続けた。軍政と反政府との内戦からミャンマーの国旗は、日本の日の丸とは違う複雑な政治的意味を帯びてしまっていたからだ。

貧しい母国、政局分裂の母国、そして軽量級…重い十字架をヴァンは背負い続けた。

2025年、ヴァンの6回目の申請を、政治に敏感なあのダナ・ホワイトが「ヴァンのしつこさには勝てない」と、ついに認めた。

そして、名実ともに〝ミャンマー代表〟となったヴァンの進撃が加速、この年の4連勝目はタイトルマッチだった。

そして、ヴァンは父親の墓のあるヒューストンに邸宅を構え、母親を迎え入れた。


In the Name of The Father…



ーーーヒューストンに自宅を購入したのは?

「父親に報告したい良いことを掴み取ったときには、いつもお参りするから、自宅が近いほうがいいからね」。


ーーーでも、あなたが戦うのはラスベガスなどのファイトシティ、そこで良いことがあってもお墓には遠いよね?しかも、一番良いことはミャンマー最大の都市ヤンゴンでタイトルマッチを行って勝つことでは?


「ふーッ。…父親の墓を、ヤンゴンにも作らなきゃいけないっとこてだね。いいアイディアだ」。



ジョシュア・ヴァンの山岳小説は、まだ終わっていない。