プエルトリコはボクシング大国であるーーーそんなあったり前田なことを、ここであらためて言う必要はないでしょう。

ただ、そんなプエルトリコでも El Orgullo de Puerto Rico(プエルトリコの誇り)の異名を持つファイターは1人だけです。

ウィルフレド・バスケスです。

プエルトリコにとっては「誇り」でも、彼は日本のボクシングファンにとっては、忌々しい「呪い」を最初にかけた憎たらしいファイターでしかありません。

WBAバンタム級王者のバスケスは1988年1月17日、初防衛羽扇のために勇躍、大阪に乗り込んできました。挑戦者は〝エンドレスファイター〟六車卓也。

激闘の末の判定はスプリットデジションで、六車は惜敗。

この黒星から1990年2月7日、大橋秀行が崔漸煥の脇腹を左ボディでえぐってテンカウントを聞かせるまで、国内ジム所属選手の世界挑戦連続失敗記録が21まで伸びてしまうのでした。

わずか2年の間に21回も世界にチャレンジできるスポーツって何なの???という疑問はここでは封印です。それを言い出すと、今はもはや疑問すらわいて来ない常識麻痺の時代です。

バスケスはフェザー級までの3階級で王座に就きます。ジュニアフェザー級では葛西裕一、フェザー級では渡辺雄二と日本のホープがあっけなく屠られてしまいます。

そんなバスケスが本当に強かったWBAジュニアフェザー級王者時代の5度目の防衛戦で迎えたのが、横田広明でした。

ボクシングを生業とするなんて、その時点で頭のネジが1本飛んでいます。変わった人間ばかりが集まる狂気の世界ですが、その中でも横田は異質でした。

普段はアートネイチャー池袋支店長としてフルタイム勤務しながら、丸の内線で一本の後楽園ホールのリングに上がり続けたのです。それも、45歳まで。

穏やかな表情と物腰からは普通の管理職サラリーマンにしか見えませんでしたが、それが逆に狂気を感じてしまいました。

見た目だけはどこからどう見ても普通なのに、背骨に狂気の髄液を流す男が、町田でボクシングジムを構えています。

IMG_3578

こんな闇市の残骸みたいな商店街がある街の一角にあるのが…。 
横田ボクシングジム です。

FullSizeRender
FullSizeRender

雑居ビルの2階。

1階の階段脇にはこんな⬇︎魅惑的なノボリが!


1分間で100発…楽勝ではないか?と思いましたが、きっと何か裏があると、思いとどまりました。

IMG_3576


さて、横田vsバスケスです。

横田は17歳だった1979年にデビューから3連勝するも、4戦目で4回判定負けを喫してこの年限りで引退。リングに戻るのは、なんと8年後の1987年。25歳になっていました。

復帰戦も判定負け。そこからは尾崎恵一、岡部繁といった後楽園ホールのビッグネームに土を付けられるものの、世界の声も上がっていたホープの西條学をKOする大番狂せで日本ジュニアフェザー級タイトルを獲得、32歳でバスケス挑戦の切符を手にしました。

一方のバスケスは33歳。1981年のデビュー戦は4回判定負け。しかし、そこから1分けを挟んで21連勝(17KO)、1986年2月にWBCバンタム級王者ミゲール〝ハッピー〟ロラと倒し倒されの激戦の末、惜敗。

非常に評価の高かったロラを追い詰めたことで、バスケスも負けてなお評価を上げます。

1987年10月には六車からWBAバンタム級のストラップを奪った朴讃栄を10回KOして、悲願のタイトルホルダーに。しかし、初防衛戦で六車とドロー、2度目の防衛戦でカオコー・ギャラクシーに判定で敗れてあっさりタイトルを手放してしまいます。

Thursday 18, November 1993
  
Korakuen Hall, Tokyo, Japan
commission:Japan Boxing Commission 


その後のバスケスは階級を上げてマイナー団体IBCのジュニアフェザー級タイトルを獲得しますが、雌伏の時間を過ごします。

そして1992年に、かつて敗れている身長178㎝の長身メキシカン、ラウル・ペレスを大番狂せの3回TKOで撃破、横田と5度目の防衛戦を迎えるのです。

この試合がちょうど10度目の世界戦となるバスケスでしたが、全てがアウエーのリングというロード・ウォリアー。

このとき28戦(23勝4敗1分)の横田は、全て国内、それも26試合が後楽園ホール。

強打と経験を持つバスケスが中盤までに試合を終わらせるーーー圧倒的不利の予想で試合開始ゴングが鳴ります。

バスケスのプレッシャーが効いていない。序盤は意外な展開で、横田がリズムを作ります。4ラウンド終了間際、サウスポーの横田が狙い澄ました左ストレートをカウンターで炸裂。

ところが、5回に横田がやはり得意の右アッパーを放った瞬間、ガラ空きになった顎にバスケスの右ショートがヒット。カウント9で立ち上がるも、完全に効かされてしまい、このラウンドを逃げ切るので精一杯。

バスケスはフィニッシュを狙って攻撃を強めます。横田はダメージから足の踏ん張りがきかず、打撃戦に応じます。意外にもこの打撃戦が互角の展開。

9回にはバスケスがローブローで減点1。王者のコーナーから「このままだと負けるぞ!」と檄が飛びます。

フットワークが戻った横田は王者を挑発するような動きまで見せますが、王者は丁寧にパンチを繋ぎます。試合終了のゴングが鳴ると、後楽園ホールを埋めた観客は番狂せの判定が下されるかもしれないと異様にどよめきました。

しかし、判定は116−112*2/115−113のユナニマスで王者の勝利。

結果論ですが、5回のダウンと、横田が余力を残していた最後の3つのラウンドが27-30/28-30*2と王者のフルマーク。

勝てた試合でした。

数字以上の惜敗でした。

この試合を視察した帝拳陣営は無敗のホープ、葛西裕一をバスケスに挑戦させる交渉をまとめます。

3ヶ月後、東京体育館でバスケスはわずか125秒で葛西を3度も倒してKO。帝拳のホープはバスケスのオーラにあまりにも呆気なく飲み込まれてしまったのでした。

そして、横田はその後も戦い続け、1分けを挟んで7連勝を飾ります。バスケス戦を最後に敗北を味わうことはありませんでしたが、世界挑戦の機会は2度と巡ってきませんでした。

この7連勝を辿ると、3連勝のあと1995年5月で36歳になった横田は2度目の引退。横田スポーツジムを開きますが、1998年にまたカムバックするもドロー。JBCの定める「37歳定年制」に従い、3度目の引退。

横田は年齢制限の改定を求め、JBCに何度も嘆願書を提出、43歳になった2004年に3度目の現役復帰を認められます。最後の試合、7連勝目はジェーンロップ・スーンギラーノーイナイ(タイ)に5回KO。

横田は45歳になっていました。



FullSizeRender
IMG_3572


昨夜は、市長選で大騒ぎの町田で2人飲み。

そのついでに横田広明のジムをのぞいてきました。