リング誌のアーカイブがフルオーブン、1960年代の世界バンタム級ランキングなども簡単に覗けるようになりました。

世界8位にランクされている斉藤勝男は日本バンタム級、OPBFフェザー級の王者になった技巧派。ファイティング原田はエデル・ジョフレから大番狂せでタイトルを奪ったあとに、ノンタイトル12回戦を戦っています。
当たり前ですが、当時はPFPランキングなどという妄想などはありませんでした。
現在、ジュニアフェザー級以下のクラスはストロー級、ジュニアフライ級、フライ級、ジュニアバンタム級、バンタム級、ジュニアフェザー級の6階級に細分化されてしまいました。
さらに、4つの認定団体がそれぞれ王者を擁立していますから24人のタイトルホルダーがひしめいていることになります。暫定や上位タイトルなど同一団体の同一階級でも世界王者が粗製濫造されているので、24人以上になることもありえます。
1960年代は、このゾーンにフライ級とバンタム級だけ、認定団体も一つだけでしたから王者は2人しか存在していませんでした。
さらに、当時のボクシングは今では考えられないほど社会的ステイタスが上でした。
それが今では、亀田興毅がボクシングの「再興」を標榜し、黄金時代を知る自民党の議員たちまでが、ボクシングの衰退を危惧して「プロボクシングの発展を応援する国会議員の会」を立ち上げるありさまです。
さて、本題のストーリーラインからは少し外れますが、原田がジョフレを破ったときのリング誌をご紹介。

1965年8月号です。
ヘッドラインは「接戦の末に敗れたジョフレだが、再戦を熱望」。
「無敗のまま王者のままで引退する」。ジョフレの夢は、原田によって打ち砕かれた。
1万2000人以上の観客は、圧倒的不利と見られていた原田の勝利に熱狂した。多くの専門家と同様に、彼らもジョフレが原田を5ラウンド以内にKOすると思っていたのだ。

リング誌の通信員になったばかり、まだ18歳のジョー小泉が書いた記事です!
記事一つの対価は25ドルだったそうです。当時は1ドル360円の固定相場ですから、9000円です。
大卒初任給が2万1000円だった時代ですから、いまなら10万円くらいでしょうか。

世界8位にランクされている斉藤勝男は日本バンタム級、OPBFフェザー級の王者になった技巧派。ファイティング原田はエデル・ジョフレから大番狂せでタイトルを奪ったあとに、ノンタイトル12回戦を戦っています。
当たり前ですが、当時はPFPランキングなどという妄想などはありませんでした。
現在、ジュニアフェザー級以下のクラスはストロー級、ジュニアフライ級、フライ級、ジュニアバンタム級、バンタム級、ジュニアフェザー級の6階級に細分化されてしまいました。
さらに、4つの認定団体がそれぞれ王者を擁立していますから24人のタイトルホルダーがひしめいていることになります。暫定や上位タイトルなど同一団体の同一階級でも世界王者が粗製濫造されているので、24人以上になることもありえます。
1960年代は、このゾーンにフライ級とバンタム級だけ、認定団体も一つだけでしたから王者は2人しか存在していませんでした。
さらに、当時のボクシングは今では考えられないほど社会的ステイタスが上でした。
それが今では、亀田興毅がボクシングの「再興」を標榜し、黄金時代を知る自民党の議員たちまでが、ボクシングの衰退を危惧して「プロボクシングの発展を応援する国会議員の会」を立ち上げるありさまです。
さて、本題のストーリーラインからは少し外れますが、原田がジョフレを破ったときのリング誌をご紹介。

1965年8月号です。
ヘッドラインは「接戦の末に敗れたジョフレだが、再戦を熱望」。
「無敗のまま王者のままで引退する」。ジョフレの夢は、原田によって打ち砕かれた。
1万2000人以上の観客は、圧倒的不利と見られていた原田の勝利に熱狂した。多くの専門家と同様に、彼らもジョフレが原田を5ラウンド以内にKOすると思っていたのだ。

リング誌の通信員になったばかり、まだ18歳のジョー小泉が書いた記事です!
記事一つの対価は25ドルだったそうです。当時は1ドル360円の固定相場ですから、9000円です。
大卒初任給が2万1000円だった時代ですから、いまなら10万円くらいでしょうか。
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