昨日行われたIBFジュニアフライ級タイトルマッチ。
矢吹正道が圧倒的不利予想を覆して、王者シンベナティ・ノンティンガからレッドベースのベルトを奪い取りました。
いや、お見事でした。
泥酔したこの時間に語るのは「矢吹や田中恒成は好きだけど、名古屋の気質は大嫌い」という問題提起ではなく、この試合をジャッジした3人の1人、フィリップ・ホリデーについて。
この局地的ゲリラ的ゲットー的レジスタント的ブログでホリデーの名前を知っているのは「戦闘機Fighterさん」くらいかもしれません。
この南アフリカ生まれ、豪州在住のホリデー、ジャッジ席に203試合を座り、レフェリーとして199試合も捌いているベテランです。
ブリスベーンの〝No Deal〟を知らない若いボクシングファンの方々でも、この話の流れでお分かりでしょう。
フィリップ・ホリデーの54歳の人生で、その名声が最も轟いたのはジャッジとしてでも、レフェリーとしてでもありません。
IBFライト級王者(1995−1997)、選手としてです。
タンクやライアンなど、現在の小粒極まるライト級周辺とは違い、あの頃はゾクゾクするようなタレントが蠢き、日本のファイターもそこに絡めるかもしれないというエキサイティングな時代だったのです。
ホリデーはその重要なバイプレーヤーでした。

日本ではWBOが地域タイトルの中でも下位の扱いだった時代。
IBO、WBF、WBU(なんか懐かしいなあ)よりもWBOが後付けされていた時代。
それでも、WBOには「WBAから分離独立したという事実から、4番目の主要団体として認められる血統書がある」(リング誌)という見立てがありました。
「えーー???ほんならWBAから分離独立した団体は無限に主要団体になるの!?」という疑問と怒りと戸惑いを巻き込みながら、WBOは第4団体に。
⬆︎⬇︎上記・下記の画像は1997年9月号から。ホリデーがIBF王者に座っています。そして、WBAフライ級で井岡弘樹(一翔ではありません)の直下9位にランキングされてるのが「マニー・パキロ」。


同じ号にも関わらず、OPBFランキングでの「マニー・パキロ」は、「マニー・パクラオ」。
このボクシング・マガジンを見た人は「マニー・パキロ」と「マニー・パクラオ」は別人だと思ったでしょう。
というか、当時の私と同様に「マニー・パキロ」も「マニー・パクラオ」も全く気にせずに、これが誰なのかを想像することもできずに、眼中に入っていなかったはずです。
ましてや、フェザー級以下は「レーダーに補足できない」米欧では、のちにフレディ・ローチが「初めて会ったときに『元WBCフライ級王者だ』と言われたが、そんなのこっちでは誰も知らねーよ」と思ったのも無理もありません。
パキロだかパクラオだかが、初めて受け取ったファイトマネーは祭りの草拳闘の優勝賞金わずか2ドル足らず、嘘みたいな本当の話です。
そして、パキロだかパクラオだか以上に無視されていたのが、米国では「小さすぎるから絶対にスターになれない」「打たれ弱く、勝負弱い血筋だから本名ではなくリングネームを使うべき」と、揶揄されたプリティーボーイでした。
「俺はレナードの後継者だ!」と、ことあるごとに宣言していた彼は「小さいくせに黙ってろ」「五輪で金メダルを逃した分際で」「レナードの名前を口にするな。汚らわしい」とまで、馬鹿にされていました。
そして、デビュー戦のファイトマネーはわずか2500ドル。
トップランクへのマネジメント料や税金を差し引かれて振り込まれた金額は、1500ドルもありませんでした。当時のレートで15万円です。日本の大学生がちょこちょこっと家庭教師した方が儲かります。いや、彼の場合は月給ではないから、月給換算だと生活保護の方がマシなレベルです。

世界タイトル奪取や、ガッツの塊アーツロ・ガッティとの試合後、慢性的な拳の痛みで最初の引退会見ーーーなどなどなど、節目節目で涙をこぼしていた彼は「泣き虫」で有名でしたが、デビュー戦のファイトマネーを受け入れたときほど悔しくて泣いたことはないと振り返っています。
…いかん!フィリップ・ホリデーの話であった!!!
ホリデーの話に戻すでェ〜〜〜〜!
矢吹正道が圧倒的不利予想を覆して、王者シンベナティ・ノンティンガからレッドベースのベルトを奪い取りました。
いや、お見事でした。
泥酔したこの時間に語るのは「矢吹や田中恒成は好きだけど、名古屋の気質は大嫌い」という問題提起ではなく、この試合をジャッジした3人の1人、フィリップ・ホリデーについて。
この局地的ゲリラ的ゲットー的レジスタント的ブログでホリデーの名前を知っているのは「戦闘機Fighterさん」くらいかもしれません。
この南アフリカ生まれ、豪州在住のホリデー、ジャッジ席に203試合を座り、レフェリーとして199試合も捌いているベテランです。
ブリスベーンの〝No Deal〟を知らない若いボクシングファンの方々でも、この話の流れでお分かりでしょう。
フィリップ・ホリデーの54歳の人生で、その名声が最も轟いたのはジャッジとしてでも、レフェリーとしてでもありません。
IBFライト級王者(1995−1997)、選手としてです。
タンクやライアンなど、現在の小粒極まるライト級周辺とは違い、あの頃はゾクゾクするようなタレントが蠢き、日本のファイターもそこに絡めるかもしれないというエキサイティングな時代だったのです。
ホリデーはその重要なバイプレーヤーでした。

日本ではWBOが地域タイトルの中でも下位の扱いだった時代。
IBO、WBF、WBU(なんか懐かしいなあ)よりもWBOが後付けされていた時代。
それでも、WBOには「WBAから分離独立したという事実から、4番目の主要団体として認められる血統書がある」(リング誌)という見立てがありました。
「えーー???ほんならWBAから分離独立した団体は無限に主要団体になるの!?」という疑問と怒りと戸惑いを巻き込みながら、WBOは第4団体に。
⬆︎⬇︎上記・下記の画像は1997年9月号から。ホリデーがIBF王者に座っています。そして、WBAフライ級で井岡弘樹(一翔ではありません)の直下9位にランキングされてるのが「マニー・パキロ」。


同じ号にも関わらず、OPBFランキングでの「マニー・パキロ」は、「マニー・パクラオ」。
このボクシング・マガジンを見た人は「マニー・パキロ」と「マニー・パクラオ」は別人だと思ったでしょう。
というか、当時の私と同様に「マニー・パキロ」も「マニー・パクラオ」も全く気にせずに、これが誰なのかを想像することもできずに、眼中に入っていなかったはずです。
ましてや、フェザー級以下は「レーダーに補足できない」米欧では、のちにフレディ・ローチが「初めて会ったときに『元WBCフライ級王者だ』と言われたが、そんなのこっちでは誰も知らねーよ」と思ったのも無理もありません。
パキロだかパクラオだかが、初めて受け取ったファイトマネーは祭りの草拳闘の優勝賞金わずか2ドル足らず、嘘みたいな本当の話です。
そして、パキロだかパクラオだか以上に無視されていたのが、米国では「小さすぎるから絶対にスターになれない」「打たれ弱く、勝負弱い血筋だから本名ではなくリングネームを使うべき」と、揶揄されたプリティーボーイでした。
「俺はレナードの後継者だ!」と、ことあるごとに宣言していた彼は「小さいくせに黙ってろ」「五輪で金メダルを逃した分際で」「レナードの名前を口にするな。汚らわしい」とまで、馬鹿にされていました。
そして、デビュー戦のファイトマネーはわずか2500ドル。
トップランクへのマネジメント料や税金を差し引かれて振り込まれた金額は、1500ドルもありませんでした。当時のレートで15万円です。日本の大学生がちょこちょこっと家庭教師した方が儲かります。いや、彼の場合は月給ではないから、月給換算だと生活保護の方がマシなレベルです。

世界タイトル奪取や、ガッツの塊アーツロ・ガッティとの試合後、慢性的な拳の痛みで最初の引退会見ーーーなどなどなど、節目節目で涙をこぼしていた彼は「泣き虫」で有名でしたが、デビュー戦のファイトマネーを受け入れたときほど悔しくて泣いたことはないと振り返っています。
…いかん!フィリップ・ホリデーの話であった!!!
ホリデーの話に戻すでェ〜〜〜〜!
コメント