リング誌のPFPが定点観測できる形になったのは、1980年から。
40年以上前のことですが、2015年に山中慎介と内山高志が10傑入り(電子版)するまで35年もの歳月を要してしまいました。
インターネットがない時代、王者と階級の乱造が進む70年代以降は特に、アジアの軽量級は軽視される存在に甘んじてきました。
もし「あの時代」にも猫の目のように変わる電子版PFPがあれば、最初に扉を開いたのは〝神の左〟ではなかったのかもしれません。
日本のボクサーが、米国のメディアも注目するような旬の未来の殿堂入り選手や、PFPファイターと戦うチャンスは、今も昔も滅多にありません。
井上尚弥は殿堂入りが確実視されるノニト・ドネアから2戦2勝を挙げましたが、到底「旬」とは言えない、黄昏バージョンのドネアでした。
井岡一翔は殿堂入りしそうなファイターとの対戦はありません。明後日、拳を交えるドニー・ニエテスは可能性ゼロではありませんが、ドネア同様に全盛期とは口が裂けても言えません。
平仲明信は殿堂入りでPFPランカーでもあったエドウィン・ロサリオを初回で粉砕しましたが、あのときのロサリオも全盛期はとうの昔に過ぎていました。
一団体10階級時代という「世界王者は世界最強」「世界ランカーに弱い奴はいない」という当たり前が当たり前だった時代とはいえ、ファイティング原田の強運は想像を絶します。
当時、定点観測できるPFPランキングが存在していたならおそらく1位だったエデル・ジョフレと2度も戦える幸運。原田に連敗して引退したあと、黄金のバンタムが3年のブランクを跳ね返してフェザー級タイトルを獲得、ボクサーとしての資質の大きさをあらためて見せつけてくれたのも、間接的に原田の名声を高めてくれました。
そして、ジョフレはその生涯で、ついに原田にしか負けなかったのです。
世界王者になるには、世界に1人しかいない王者を倒す以外の方法がなかった時代とは違い、世界王者と階級が乱造されている1980年代以降は〝ジョフレ〟を回避して世界に挑戦するのが、日本のエース級ボクサーの常套手段でした。
そもそも〝ジョフレ〟レベルのボクサーなど、滅多に現れないのですが。
ところが、1991年12月17日、日本のエース井岡弘樹が2階級制覇を賭けて挑戦したのは、後の殿堂入り選手で当時無敗、WBAジュニアフライ級王者・柳明佑でした。
当時のジュニアフライ級シーンは、IBFがソウル五輪銀のマイケル・カルバハル、WBOはまだ初代王者のホセ・デ・ヘススでした。
当時のJBCはIBFとWBOを受け入れていなかったので、井岡弘樹の選択はWBAの柳か、WBCのウンベルト・ゴンザレスという超強豪の2人に絞られていました。
メキシコの人気者ゴンザレスは、1年3ヶ月後にセットされるカルバハルとのメガファイトに向けてスタンバイ中。日本に呼べるタマでもありません。
そうなると、ターゲットは17連続防衛中の柳だけ。
激しく降る夕立ち、ソナギに喩えられる柳の止まない連打は喜友名朝博、小見山カツミ、大鵬健文、徳山尚の4人の日本人挑戦者を全く問題とせず、なぎ倒してきました。
井岡が5人目の犠牲者になることは決定事項のように語られる、圧倒的不利な予想の中でエースがリングに上がるという日本ではありえない構図でした。
陣営に出来ることは一度も韓国を出て戦ったことのない柳を、井岡のホーム大阪のリングに引っ張り込むことしかありませんでした。
もし、90年代にもキーとなる試合ごとに猫の目シャッフルされるPFPがあれば、柳はベスト10の中位にランキングされていたはずです。
当時はまだ「快挙」という表現が許された2階級制覇、それを無敗のPFPファイターが継続中だった連続防衛記録を17で止める形で成し遂げた井岡弘樹がPFPランキングに入っていた可能性は濃厚です。
そして、ジョフレのように柳も敗れたのは井岡だけのまま引退するのでした。
40年以上前のことですが、2015年に山中慎介と内山高志が10傑入り(電子版)するまで35年もの歳月を要してしまいました。
インターネットがない時代、王者と階級の乱造が進む70年代以降は特に、アジアの軽量級は軽視される存在に甘んじてきました。
もし「あの時代」にも猫の目のように変わる電子版PFPがあれば、最初に扉を開いたのは〝神の左〟ではなかったのかもしれません。
日本のボクサーが、米国のメディアも注目するような旬の未来の殿堂入り選手や、PFPファイターと戦うチャンスは、今も昔も滅多にありません。
井上尚弥は殿堂入りが確実視されるノニト・ドネアから2戦2勝を挙げましたが、到底「旬」とは言えない、黄昏バージョンのドネアでした。
井岡一翔は殿堂入りしそうなファイターとの対戦はありません。明後日、拳を交えるドニー・ニエテスは可能性ゼロではありませんが、ドネア同様に全盛期とは口が裂けても言えません。
平仲明信は殿堂入りでPFPランカーでもあったエドウィン・ロサリオを初回で粉砕しましたが、あのときのロサリオも全盛期はとうの昔に過ぎていました。
一団体10階級時代という「世界王者は世界最強」「世界ランカーに弱い奴はいない」という当たり前が当たり前だった時代とはいえ、ファイティング原田の強運は想像を絶します。
当時、定点観測できるPFPランキングが存在していたならおそらく1位だったエデル・ジョフレと2度も戦える幸運。原田に連敗して引退したあと、黄金のバンタムが3年のブランクを跳ね返してフェザー級タイトルを獲得、ボクサーとしての資質の大きさをあらためて見せつけてくれたのも、間接的に原田の名声を高めてくれました。
そして、ジョフレはその生涯で、ついに原田にしか負けなかったのです。
世界王者になるには、世界に1人しかいない王者を倒す以外の方法がなかった時代とは違い、世界王者と階級が乱造されている1980年代以降は〝ジョフレ〟を回避して世界に挑戦するのが、日本のエース級ボクサーの常套手段でした。
そもそも〝ジョフレ〟レベルのボクサーなど、滅多に現れないのですが。
ところが、1991年12月17日、日本のエース井岡弘樹が2階級制覇を賭けて挑戦したのは、後の殿堂入り選手で当時無敗、WBAジュニアフライ級王者・柳明佑でした。
当時のジュニアフライ級シーンは、IBFがソウル五輪銀のマイケル・カルバハル、WBOはまだ初代王者のホセ・デ・ヘススでした。
当時のJBCはIBFとWBOを受け入れていなかったので、井岡弘樹の選択はWBAの柳か、WBCのウンベルト・ゴンザレスという超強豪の2人に絞られていました。
メキシコの人気者ゴンザレスは、1年3ヶ月後にセットされるカルバハルとのメガファイトに向けてスタンバイ中。日本に呼べるタマでもありません。
そうなると、ターゲットは17連続防衛中の柳だけ。
激しく降る夕立ち、ソナギに喩えられる柳の止まない連打は喜友名朝博、小見山カツミ、大鵬健文、徳山尚の4人の日本人挑戦者を全く問題とせず、なぎ倒してきました。
井岡が5人目の犠牲者になることは決定事項のように語られる、圧倒的不利な予想の中でエースがリングに上がるという日本ではありえない構図でした。
陣営に出来ることは一度も韓国を出て戦ったことのない柳を、井岡のホーム大阪のリングに引っ張り込むことしかありませんでした。
もし、90年代にもキーとなる試合ごとに猫の目シャッフルされるPFPがあれば、柳はベスト10の中位にランキングされていたはずです。
当時はまだ「快挙」という表現が許された2階級制覇、それを無敗のPFPファイターが継続中だった連続防衛記録を17で止める形で成し遂げた井岡弘樹がPFPランキングに入っていた可能性は濃厚です。
そして、ジョフレのように柳も敗れたのは井岡だけのまま引退するのでした。


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