当たり前なのですが、最近の若い人たちが囲まれている情報量は、私たちの時代とは比べようもありません。

ただ、その情報の質は断片的で、点か線かというと間違いなく線です。

インターネットに情報が溢れる時代、その情報の正確さについて何の指針も待っていないことが少なくありません。

インターネット上では、大手の新聞社も聞いたことがないメディアも玉石混交ですが、その差は画面上からは分かりにくいのが現実です。

また、最近の方は「大手だから有名だから信頼できる」なんて、もはや幻想であることに気付いてしまっているということもあるでしょう。

日本の若者の読解力が落ちていることは、PISAの結果を見なくても明らかです。

電話番号を覚える必要性が低くなり、忘れた事柄があってもスマホで調べたらすぐに答えが分かる、思い出そうとする作業も現代では不要です。

そんな記憶を手繰り寄せる思考をしなくなったことも、文章を「物語の線」で読み解くことが苦手になってしまった原因かもしれません。

東京大学の入学試験で国語以外の問題でも「日本語の読解力」を問う傾向が強まっているのは、こうした流れを受けてのことでしょう。

この「若者の読解力低下」に歯止めをかけるべく、「論理国語」と「文学国語」が産み落とされてしまいました。

国語を「実用」と「芸術」に分けて考えるなんて、無意味にも程があります。

例えば、スポーツの試合レポートは「実用」の範疇に入るはずですが、書き手の情念が入り込むケースも珍しくありません。

むしろ、そんな書き手の心模様が全く読み取れない方が珍しいかもしれません。

多くの書き手が「透明なレンズを通して対象を追いかける」ことを心がけるケースが多いスポーツノンフィクションの場合は「実用」の体裁を追求しながら「芸術」に至らしめようとしてるのですから、論理国語と文学国語の線引きがいかに不条理な行為なのかを思い知らされます。

次の検定では「論理国語」に小説を題材にする教科書会社が増えて更なる混乱を呼び込むのは必至です。

そして、教科用図書検定調査審議会は「小説を掲載するのは1作品まで」とか、さらに意味不明の迷走対応をしてしまうのでしょう。