スターというのはみんなの期待に応える存在。
でもスーパースターの条件は、その期待を超えること。(長嶋茂雄)
この50年、日本のボクシング界をリードした世界王者11人を【みんなの期待に応えたか?】【その期待を超えたか?】の2点から独断と偏見で評価してゆきます。
でもスーパースターの条件は、その期待を超えること。(長嶋茂雄)
この50年、日本のボクシング界をリードした世界王者11人を【みんなの期待に応えたか?】【その期待を超えたか?】の2点から独断と偏見で評価してゆきます。
井岡弘樹が少年から大人の階段を駆け上がったのに対して、畑山隆則は永遠の少年でした。
ジュニアライト級とライト級を2階級制覇。
この2つのクラスは、現在で見るとシャクール・スティーブンソンやオスカル・バルデス、ワシル・ロマチェンコにテオフィモ・ロペス、ライアン・ガルシア、ガーボンタ・デービスらが覇を競う花形ゾーンです。
この2つのクラスは、現在で見るとシャクール・スティーブンソンやオスカル・バルデス、ワシル・ロマチェンコにテオフィモ・ロペス、ライアン・ガルシア、ガーボンタ・デービスらが覇を競う花形ゾーンです。
畑山のボクシングには華がありました。
それも当然です、少年が喧嘩するように世界戦のリングで拳を振るっていたのですから。
それも当然です、少年が喧嘩するように世界戦のリングで拳を振るっていたのですから。
畑山のボクシングは、ロマチェンコや井岡一翔の〝あざとさ〟とは全く無縁でした。
簡単に言うと、相手の長所を封じ込めて空転させるのではなく、それを解放させて、相手の土俵で戦う〝道場破り〟のボクシング。
社会人になって、しばらくの独身時代。週末、後楽園ホールに通うこともよくありました。
誰も誘わず、いつも一人でした。結婚して子供ができると、後楽園ホールからは一気に遠ざ勝ってしまいましたが、ちょうどそんな頃に聖地で熱い戦いを見せてくれていたのが畑山でした。
私にとって、最後の後楽園ホールのホープが畑山でした。
私にとって、最後の後楽園ホールのホープが畑山でした。
【みんなの期待に応えたか?】
畑山はプロ野球選手を目指して青森山田高校に進学するも、先輩と喧嘩して退部。
同じ青森出身のレパード玉熊の試合に感化され、辰吉丈一郎の熱狂に押され、プロボクサーになるために高校を中退します。
上京、ヨネクラジムのエリート偏重の環境で相手にされなかったことで、京浜川崎ボクシングジムへ移籍。
そこで韓国の〝丹下段平〟柳和龍に出会います。
柳は元韓国ジュニアライト級王者でしたが、初勝利はデビュ−4戦目。倒れたら立ち上がるキャリアは11勝5KO11敗2分。
ボクシングにしがみつかなければならない事情と意地を抱えた、そんな二人の邂逅。
玉熊が帯びていた〝津軽の暗さ〟や、辰吉が孕んでいた〝死亡遊戯〟とは無縁。畑山の明るさは、軽妙な柳とのやり取りからも滲み出ていました。
きのうはぐれた狼が、今日はマットで血を流す〜その通りの人生でしたが、そこには矢吹丈の焦燥もありません。
世界初挑戦は、1997年10月5日。デビューからここまで、畑山は20連勝16KOの22歳。
対するWBAジュニアフェザー級のストラップを5度防衛中の崔龍洙は、23勝13KO2敗の25歳。三谷大和、松本好二を退けて日本人には鬼門の王者でした。
当時、WBCフライ級王者ユーリ・アルバチャコフがリング誌の年間PFPにランクインするなど盤石の強さを見せつけていましたが、日本ボクシングは14試合連続で世界挑戦失敗を重ねる連敗中。
畑山への期待は大きく膨らんでいましたが、タフな崔との打撃戦は三者三様のドローに終わります。ドローは王者にとっては勝利、挑戦者にとっては敗北です。
12ラウンド終了、判定のコールを待つまでの間、両国国技館には「新王者誕生」の予感に包まれていました。
「チャンピオンは強かったぁ」「ああ、負けちゃったぁ、ちっきしょう」とつぶやく畑山に、ボクシングファンが幻滅するすることはありませんでした。
「また挑戦しろ!」「次、絶対勝てる!」「ずっと応援してるぞ!」。そんな激励が飛んでいました。
ちょうど11ヶ月後の1998年9月5日、同じ両国国技館で崔と再戦、今度はクロスゲームをものにして世界奪取。
判定が読み上げられると、畑山は柳に抱きついて嗚咽しました。涙が一番似合わない男が泣きました。
「高校中退して、お前なんかに出来るわけがないと言われながらここまで辿り着けた」「先生(柳トレーナー)と一緒に世界を獲りたかった」。
畑山はプロ野球選手を目指して青森山田高校に進学するも、先輩と喧嘩して退部。
同じ青森出身のレパード玉熊の試合に感化され、辰吉丈一郎の熱狂に押され、プロボクサーになるために高校を中退します。
上京、ヨネクラジムのエリート偏重の環境で相手にされなかったことで、京浜川崎ボクシングジムへ移籍。
そこで韓国の〝丹下段平〟柳和龍に出会います。
柳は元韓国ジュニアライト級王者でしたが、初勝利はデビュ−4戦目。倒れたら立ち上がるキャリアは11勝5KO11敗2分。
ボクシングにしがみつかなければならない事情と意地を抱えた、そんな二人の邂逅。
玉熊が帯びていた〝津軽の暗さ〟や、辰吉が孕んでいた〝死亡遊戯〟とは無縁。畑山の明るさは、軽妙な柳とのやり取りからも滲み出ていました。
きのうはぐれた狼が、今日はマットで血を流す〜その通りの人生でしたが、そこには矢吹丈の焦燥もありません。
世界初挑戦は、1997年10月5日。デビューからここまで、畑山は20連勝16KOの22歳。
対するWBAジュニアフェザー級のストラップを5度防衛中の崔龍洙は、23勝13KO2敗の25歳。三谷大和、松本好二を退けて日本人には鬼門の王者でした。
当時、WBCフライ級王者ユーリ・アルバチャコフがリング誌の年間PFPにランクインするなど盤石の強さを見せつけていましたが、日本ボクシングは14試合連続で世界挑戦失敗を重ねる連敗中。
畑山への期待は大きく膨らんでいましたが、タフな崔との打撃戦は三者三様のドローに終わります。ドローは王者にとっては勝利、挑戦者にとっては敗北です。
12ラウンド終了、判定のコールを待つまでの間、両国国技館には「新王者誕生」の予感に包まれていました。
「チャンピオンは強かったぁ」「ああ、負けちゃったぁ、ちっきしょう」とつぶやく畑山に、ボクシングファンが幻滅するすることはありませんでした。
「また挑戦しろ!」「次、絶対勝てる!」「ずっと応援してるぞ!」。そんな激励が飛んでいました。
ちょうど11ヶ月後の1998年9月5日、同じ両国国技館で崔と再戦、今度はクロスゲームをものにして世界奪取。
判定が読み上げられると、畑山は柳に抱きついて嗚咽しました。涙が一番似合わない男が泣きました。
「高校中退して、お前なんかに出来るわけがないと言われながらここまで辿り着けた」「先生(柳トレーナー)と一緒に世界を獲りたかった」。
デビュー前から注目されるエリートではなく、柳とのコンビで印象的な試合を積み重ねて東洋太平洋、世界と順序を踏んで頂点を掴んだ畑山が、日本のエースになりました。
二匹のはぐれ狼が、ついに世界を掴み獲ったのです。
柳トレーナーの指導のもと、韓国やフィリピンでキャンプを張る畑山は、フロイド・メイウェザーのカウンターパートでもありました。二匹のはぐれ狼が、ついに世界を掴み獲ったのです。
【その期待を超えたか?】
畑山の魅力はコウジ有沢、坂本博之との日本人対決に凝縮されます。
コウジ有沢との「史上最大の日本タイトルマッチ」は、世界挑戦に失敗した再起戦として畑山が熱望しました。
18戦全勝15KO無敗と勢いに乗る日本王者コウジは、畑山にとって負ければ世界戦線脱落のリスクしかない、井岡一翔風にいうなら「何のメリットもない相手」です。
それがわかっているから、ファンにとっても「見たいけど実現するわけがない」はずの試合でした。
それを実現させちゃうのが畑山なのです。
それを実現させちゃうのが畑山なのです。
ライト級王座を獲得、2階級制覇に成功したリングでは初防衛戦に、ライト級日本最強と見られていた破格の強打者・坂本博之を指名。
「対戦相手が物足りない」と思わせてしまう最近の世界王者とは明らかに違う、徹底したファン優先の姿勢がそこにありました。
そして、試合は面白い。
そして、試合は面白い。
畑山隆則は、紛う事なきスーパースターでした。



コメント
コメント一覧 (6)
フシ穴の眼
が
しました
フシ穴の眼
が
しました
これは俺はエラいものを見てしまったと思って、その後はほぼ全試合追いましたが、
あのとき抱いた期待を上回ったか……今でも判断つきかねている部分はあるんですよねえ。
フシ穴の眼
が
しました
層の厚い中量級(日本的に)でガチ対決は凄く楽しめました。ロルシーにも勝っていたら、更に強い選手との対戦が望めましたが、戦法が単純故に技術ある選手には通用しなかったのが残念。
フシ穴の眼
が
しました
中3の頃の初生観戦がコウジ有沢戦でした。
フシ穴の眼
が
しました