複数階級制覇に団体統一戦が活発に行われる現在の状況を迎えたのは、認定団体が増えたことがその引力を弱体化させたため、ともいえます。

白井義男やファイティング原田の60年代は言うに及ばず、80年代中盤まで複数階級制覇は〝快挙〟であり、団体統一戦は認定団体にとってよほど旨味があるケースでないと実現は難しい〝稀少〟でした。 

「THE DREAM MATCH」は、マニー・パッキャオvsオスカー・デラホーヤの看板タイトルでしたが、勝手に拝借。

団体統一戦が「稀」で、複数階級制覇の〝上限〟が「3」だった時代、そして日本人がメガファイトに「近」づいた、そんな80年代から90年代初めのTHE DREAM MATCHを夢想します。

♬とんで、とんで、とんで、回って、回って、まわ〜るぅ〜〜〜♬



稀 
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▶︎WBAとWBCがせめぎ合っていた80年台前半まで、団体統一の前には様々な障害が横たわっていました。

それでも、WBAジュニアバンタム級王者・渡辺二郎は1984年7月にWBC王者パヤオ・プーンタラトとの頂上決戦を強行。

「タイトル剥奪」を警告していたWBAと、渡辺を統一王者にさせたい帝拳の間で、剥奪のタイミングを「試合終了時点」にすることで妥協、渡辺は瞬間的に統一王者の座に就きました。

2021年12月号のリング誌で特集された「DIVISION BY DIVISION:The Greatest Fighters of All time」(階級別歴代PFP)で、カオサイ・ギャラクシーに次ぐ2位に選出されます。これは全階級を通じて日本人最高位。

1984年11月、渡辺が剥奪されて空位となったWBA王座を獲得したカオサイは1991年12月までに19連続防衛。世界奪取の試合も含めた世界戦20試合は全勝17KOという凄まじい数字でした。

He became WBA super flyweight (115-pound) world champion Jiro Watanabe's mandatory challenger.
When Watanabe failed to defend his title against Galaxy, the WBA stripped him and matched Galaxy against undefeated Eusebio Espinal for the vacant title on November 21, 1984. 

BoxRecなどは、渡辺は「指名挑戦者カオサイとの防衛戦を行わなかったためにタイトルを剥奪された」と、日本で受け止められているのとは違う剥奪理由を記述しています。

このことで、一部のファンが「渡辺はカオサイから逃げた」と揶揄する根拠になっています。

WBCに鞍替えした渡辺は86年3月まで4連続防衛、ヒルベルト・ローマンに惜敗してタイトルを手放します。

カオサイとは15ヶ月間、ライバル王者でした。

渡辺がもう一度統一戦に挑み、タイのビッグパンチャーに勝利していたら、歴代2位ではなかったことは疑いようもありません。

正式な引退はローマン戦から5年が経った1991年11月。

1994年11月には後楽園ホールで、カオサイとのDREAM MATCHをエキシビションで実現させています。




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↑辰吉との対戦が期待された世界のホープたち。

▶︎大阪帝拳のエースの座を渡辺から継承した辰吉丈一郎は「ファイティング原田を凌ぐ史上最高のボクサー」と持て囃され、第1期(1991年9月〜92年3月=網膜剥離でタイトル返上)、第2期(93年7月=暫定王座〜94年12月)、第3期(97年11月〜98年12月)と、いずれも劇的なタイトル奪取と悲壮な陥落を繰り返しました。

この時代、バンタム級最強と見られていたのは、88年7月から94年10月まで16連続防衛したオルランド・カニザレス。

米国ではニーズがないバンタム級ですが、もし日本で「辰吉vsカニザレス」の統一戦が実現していたら…大きな話題を巻き起こすとんでもないメガファイトになっていたでしょう。

もちろん、JBCがIBFに加盟するのは2013年、日本でカニザレス戦など実現しようもありませんでした。


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▶︎1987年11月にトーマス・ハーンズが4階級制覇に成功するまで、複数階級制覇の壁は「3」でした。

しかし、その後の32年間でなんと22人が4階級制覇に成功。1年4ヶ月に一人の4階級制覇ボクサーが量産され、日本の井岡一翔もこの〝エリートクラブ〟に入会しています。

ファイティング原田と柴田国明に続く、日本史上3人目の2階級制覇を果たしたのは井岡弘樹。1991年12月、モダン部門で殿堂入りする柳明佑に勝ったことがまず特筆されますが、当時は「2階級制覇」もまた大偉業だったのです。
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弘樹は、原田が2度失敗した前人未到の3階級制覇に、4度挑みますがいずれも惨敗、完敗に終わってしまいます。

1993年6月:WBAフライ級王者デビッド・グリマン・メンデス=8回TKO負け。

1995年10月:WBAフライ級王者セーン・ソー・プルンチット=10回TKO負け。

1997年2月:WBAフライ級王者ホセ・ボニージャ=7回TKO負け。

1998年4月:WBAジュニアバンタム級王者 飯田覚士=2−0のMD負け。

日本人初の3階級制覇は、2010年12月に好条件を整備したリングで亀田興毅によって達成されるまで待たねばなりませんでした。

亀田はジュニアフライ級、フライ級を制して、カエル跳びでバンタムのピースも拾いました。対戦相手を吟味するいつものやり方なら、ジュニアバンタムも獲得できていた可能性も高く、初の4階級制覇は井岡一翔ではなかったかもしれません。



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▶︎1978年8月にWBAジュニアミドル級王者となった工藤正志は79年10月、アユブ・カルレの技巧に屈して陥落してしまいます。

79年12月当時、一つ下のウェルター級はWBAがピピノ・クエバス、WBCがシュガー・レイ・レナード。80年8月にハーンズがクエバスを破壊してWBAタイトルを強奪。

一つ上のミドル級はアラン・ミンターがUndisputedChampion(完全統一王者)でしたが、80年9月にマービン・ハグラーの軍門に下ります。

「(アマチュア世界選手権金メダルの)カルレと戦えただけで光栄」と満足していた工藤が、カルレに勝っていたなら?というイフは無理があるかもしれませんが、その無理イフのアナザーワールドでは「工藤vsレナード」が実現していたかもしれません。



▶︎1981年11月7日、とんでもないニュースが日本に届きました。

ニューヨーク州ロチェスターで行われたWBA世界ジュニアミドル級王座決定戦で三原正がロッキー・フラットに判定勝ち、世界王座を獲得したのです。
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このタイトルは初防衛戦で、デイビー・ムーアに6回KO負け、あっさり手放してしまいます。

しかし、その後8連勝を飾り復活。

なんと、WBC世界ジュニアミドル級王者ハーンズへの挑戦が具体化しかけましたが、持病の腰痛が悪化により1985年3月28日の試合を最後に引退を余儀なくされてしまいます。



▶︎いまだ破られていない15試合連続KO勝利の日本記録(のちに渡辺あきのり・比嘉大吾がタイ)を持つ浜田剛史も、結果的には太く短い王位でしたが、夢のある世界ボクシングシーンとシンクロしていました。

日本と東洋太平洋のライト級王座を獲得していた1984年〜86年のWBA王者はブンブン・マンシーニからリビングストン・ブランブル、エドウィン・ロサリオが覇権を争い、WBCはホセ・ルイス・ラミレスからヘクター・カマチョにベルトが遷移していました。

1986年7月、1階級上のジュニアウェルター級のWBCバージョンを持つレネ・アルレドントを3分9秒で失神させて王座獲得。
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浜田に複数階級制覇の話があったとは聞いたことがありませんが、ライト級にカマチョ、ウェルター級にドン・カリー〜ロイド・ハニーガン…ビッグネームに包囲されたランキング表は想像力をどこまでも刺激してくれました。