DAIMOND IN THE ROUGH〜覚醒前〜

デトロイトで生まれた才能が、ニューヨーク・ハーレムで花開く。
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1920年、ジョージア州の農村から一人の若者が建設現場で働くために、デトロイトにやって来た。

数ヶ月後、その妻レイラと二人の娘も彼と合流した。

1921年3月3日、三番目の子供が産まれた。今度は男の子だった。

父親の名前を継いでウォーカー・スミス・ジュニアと名付けられた。この美しい漆黒の肌を持つ赤ん坊が何者なのか、そのとき誰も知る由もなかった。

1928年、レイラはなけなしの貯金を崩して、7歳のウォーカーJr.にボクシングを習わせた。

しかし…運命の歯車は…まだ動き出さなかった。

のちに多くのメディアから質問を受ける当時の指導者は「11歳のウォーカーJr.を覚えている。友達とふざけ合ってばかりだったから、叱り飛ばしてジムから叩き出したんだ」と回想している。

「当時はボクシングの才能があるとは思えなかった」と言いながらも、そんな子はどこにでもいるのに、どうして彼だけを覚えているのか?と聞かれると、こう答えた。

「リズム感が抜群に良かった。ザワっとする感覚はあったけど、そのときはもの凄いリズム感を持っていても、優れたボクサーになれるわけじゃないと決めつけていたのかもしれない」。

「そう、あのとき、何かが背筋にザワっと走ったんだ。あんな感覚は後にも先にもあの一度きりだった。だから今でも覚えてるんだ」。

ブリュースター・レクリエーションセンターでボクシングを教えていた指導者の名前は、エディ・ファッチといった。

レイラは夫の家庭内暴力と度重なる浮気に、離婚する。子供たちをジョージアの母親に預けて、デトロイトに戻り、スタトラー・ホテルのメイドとして働き、子供たちとまた一緒に暮らすために、少ない給金から少しずつ貯金した。

1932年、レイラはニューヨークへの引っ越しを決める。

そのとき、運命の歯車が、ガタンと音を立てて動き出した。

ヘルズキッチン地区に小さなアパートを借り、母親は働き詰めた。貧しくても幸せな生活が始まった。

アパートの表通りにはニューヨークのシンボル、タイムズスクエアがあった。

夜、劇の幕間にシアターから出て来た観客は、歩道でダンスを踊る子供たちに小銭を投げて囃し立てていた。

超一流のミュージカルを観てきた目の肥えた観客にとって暇つぶしでしかなかったが、目を見張るほど飛び抜けて優れたリズム感を持つ、ダンスの上手い黒人の子供が一人だけいた。

ウォーカー・スミスJr.だった。

1933年、家族はハーレムに居を移す。

ウォーカーJr.は中学で学校をドロップアウト、路上でモノを売って働いた。

そこは、1930年代のニューヨークのダウンタウンだ。このまま、闇の谷底に落ちてゆくには打って付けの場所をウォーカーJr.は彷徨っていたが、彼はすでに命綱をしっかり握っていた。

その命綱は7歳から始めたボクシングだった。
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The Best of Sports Illustrated〜1954−1995
創刊から約40年の米国スポーツの歴史を総覧した一冊。ボクシング全盛期の1950年代、最も高い評価を得たのがシュガー・レイ・ロビンソン。写真は世界ミドル級王座に4度返り咲いたロビンソン。

写真右でバットを構えているのは、この年、44本塁打を放って初タイトルを獲ったハンク・アーロン、当時23歳でした。この時代、ボクシングは疑う余地のないメジャースポーツでした。


ニューヨークでウォーカーJr.を指導したのはジョージ・ゲインフォードだ。ジムはハーレムのセーラム・メソジスト教会の地下にあった。

「最初はボクシングの才能があるようには見えなかった」。ゲインフォードも、ファッチ同様にそれが途轍もない宝石の原石だと気づくことは出来なかった。

「ただ、おかしなことを言う子だった。こんなパンチを打ったら、相手はどう動く?この動きは意味がないように見えるけど、そのあとこの動きにつなげたら、意味を持つよね?」。

「リズミカルにしなやかに四肢を動かしながら、ボクシングに興じていたのを思い出す。チェスをするように自分の動きと相手の動きを何手も先まで読んでいくんだ」。


あらゆる伝説の類がそうであるようにシュガー・レイ・ロビンソンの物語も、細かいエピソードには諸説入り乱れ、特にこの頃はその年代までが曖昧だったりする。

次に紹介するスポーツ史上最も有名なエピソードも、それが何年何月何日のアマチュアトーナメントの大会だったのかは、定かではない。

ただ、場所はニューヨークのキングストン。正選手でなかったウォーカーJr.は粗末なパイプ椅子に座って観客席から試合を見ていた。

運命の歯車は大きく軋ませながら、ボクシングの歴史に悪戯の刻印を記す。

フライ級の選手が試合時間が迫っても姿を現さないのだ。スミスは「僕が出る」とゲインフォードに申し出るが「(アマチュアアスレティック・ユニオン=A AUの)ライセンスカードを持っていないから出場資格がない」と相手にされない。

しつこく頼み込むウォーカーJr.に、ゲインフォードは一考を思い付いた。

持ち歩いているAAUカードの束をトランプのようにシャッフルして一枚のカードを抜き出したのだ。

「ちょうどいい。こいつはしばらくジムに来ていない幽霊部員だ」。

カードを渡すとゲインフォードは小声で囁いた。

「いいか、この試合が終わるまでお前の名前はレイ・ロビンソンだ」。

このエピソードも、ゲインフォードとウォーカーJr.は事実だと主張しているが、他に〝証人〟はいない。

事実じゃないと疑う理由もないはずだが、ゲインフォードを知る多くの人は「彼は杓子定規の真面目人間。そんな遊び心でルールを犯すわけがない」と口を揃えた。

そして、真面目一徹のゲインフォードもまた戸惑っていた。なりすましの選手を出場させてしまったのだから。

「どうしてあんなことをしてしまったのか、自分でもわからない。絶対にやっちゃいけないこと。ただあのときは熱にうなされたように、やってしまった。あんな軽はずみなことをしたのは、生涯あれっきりだ」。

その試合をウォーカーJr.は美しく戦いユナニマス・デジションで勝利を収めた。

1試合限定の「レイ・ロビンソン」だったが、勝ったために次の試合もその名を使わなければならなくなった。

1週間後、キングストンに戻った「レイ・ロビンソン」は、さらに美しい勝利を収めた。リングサイドが、ザワめく。

「誰だ?あのスタイリッシュなボクサーは?」。

「レイ・ロビンソン?これが本当に2戦目か?」。

「レイ・ロビンソンは次にどの大会に出るんだ?」。

このとき、ウォーカー・スミスJr.は少なくともリングの上では本名に戻る機会を永遠に失ってしまった。

1939年1月5日、18歳のウォーカー・スミスJr.、いやレイ・ロビンソンはニューヨーク・ウォータータウンで強豪ドム・パーフェティからも特別に美しい勝利を収めた。

That's a Sweet Fighter you've got there.


ウォータータウン・デイリータイムズ紙のジャック・ケース記者は「なんて美しく戦うボクサーだ!」とゲインフォードを祝福した。

ここからが重要な話だが、やはり諸説入り乱れている。

Sweet as Sugarーー。その3つの単語はゲインフォードの口から発せられたとも、近くに座っていた女性が感嘆してもらした言葉とも、ケース記者が表現したとも言われている。

いずれにしても、このときレイ・ロビンソンが初めてその冠をつけたのだ。


Sweet as Sugar


The following day, Case’s article in the Watertown Daily Times referenced “Sugar Ray Robinson.” A legend had been born. 

翌日、ウォータータウン・デイリー・タイムズ紙に掲載されたケースの記事には「シュガー・レイ・ロビンソン」と書かれていた。

伝説が誕生した。

後年、ゲインフォードは「私は史上最も偉大なトレーナーだ」と自慢した。「シュガー・レイ・ロビンソンを育てたのは私だ」と。

「ジョージ、君は何百人ものファイターを育ててきたのに、なぜ他のみんなはシュガー・レイのように優秀ではなかったのか?」。

そう問い詰められると、ゲインフォードは「私が最初に見つけたんだ!」と主張を変えた。

おそらく、最初に見つけたのは、のちに伝説となるエディ・ファッチだ。

「あなたがもし11歳のウォーカーJr.とコンビを組んでいたら、一体全体どんなボクサーに育っていたんでしょうか?」。

生涯何度も聞かれた質問に、ファッチの答えはいつも短く素気のないものだった。

「何にも変わらない。本物の才能は育てるもんじゃない。生まれてくるもんだ」。

シュガー・レイ・ロビンソンの正確なアマチュア成績、これもまた諸説が入り乱れている。

多くの伝記やBoxRec"では「85戦全勝69KO・RSC、69のKOのうち40が1ラウンド!で試合を終わらせた」という〝最強説〟。

しかし、ウォーカー・スミスJr.時代に3敗はしている、という説が有力だ。

ただし、当時はニューヨークがボクシングのメッカであり、ニューヨーク・ゴールデングローブのタイトルは現在のプロのアルファベット団体のタイトルはもちろん、五輪の金メダルよりも注目と尊敬を集める栄光だった事実を忘れてはならない。

ロビンソンはその世界の中心で、1939年から40年のわずか2年間でフェザー級とライト級のチャンピオンに輝いた。


1940年9月19日、ニューヨーク州アスレチック・コミッションにプロ・ボクサー・ライセンスを申請した書類が残っている。

▶︎生年月日:1921年3月3日。年齢、19歳。

▶︎住所:ニューヨーク市西116丁目215番地。

▶︎前職:タップダンサー。

▶︎本名:ウォーカー・スミスJr.。

▶︎リングネーム: レイ・ロビンソン。

申請書のサインには 「レイモンド・ロビンソン 」と署名されている。

10月4日、マディソン・スクエア・ガーデンでプロデビュー。ジョー・エチェバリアを2ラウンドでノックアウトした。

その4日後の夜、ジョージア州サバンナで行われたカードでも2ラウンドTKOで勝利した。



伝説の幕が開き、栄光への疾走が始まった。