日本ボクシング史を振り返ると、世界に誇るエースが拳を振るい、彼を支えるジム(プロモーター)の存在がありました。

エースの系譜を紐解くと、日本ボクシングを支配していたプロモーターの姿がわかりやすく浮かび上がってきます。

タフ・ネゴシエイションをくぐり抜け、傘下の選手に有利な条件で試合を成立させるのがプロモーターの仕事です。

ターゲットが明らかな白井義男やファイティング原田の1団体時代よりも、団体と階級が量産されている現代の方が、プロモーターの役割が大きくなっているのは間違いありません。

WBAからWBCが分離独立した1966年当初、JBCはWBCを認めていませんでした。このあたりの硬直的な体質は55年後の現在にも遺伝している癌細胞です。

1970年に世論に押される形で、ようやくWBCが認知されますが、世界王者が二人存在するという矛盾にジュニアフェザー級やジュニアフライ級の新設が続き、ボクシング界は魔宮に迷い込んでしまいます。

フライ級の白井、フライ・バンタム級の原田の前に立ち塞がる世界王者は、地球上にたった一人しかいませんでした。そこには道案内も道標も必要ありません。まっすぐに伸びた一本道を突き進んでいけば良いだけです。

しかし、跳梁跋扈の魔宮では、道標が必要です。

フライ級の強豪王者を回避してジュニアフライ級を狙う。挑戦機会の少ないフェザー級ではなく、ジュニアフェザー級に活路を見出す。

ボクサーのキャリアをデザインするのがプロモーターですが、その傾向はより濃厚になってゆきます。
IMG_1255
1966年8月20日の世界王者一覧(リング誌から)。10人の世界王者全員を把握しているボクシングファンも多かったでしょう。

そして、フライ・バンタムの王者でも、堂々とメインイベントのリングに上がっていました。しかし、現在の超軽量級はメガイベントの前座が最も報酬が高いという、添え物階級に成り下がってしまいました。




★1950年代:白井義男(フリーエージェント)

★1760年代:ファイティング原田(笹崎)

★1970年代:輪島功一(三迫)/大場政夫(帝拳)/具志堅用高(協栄)

★1980年代:具志堅用高(協栄)/渡辺二郎(大阪帝拳)

★1990年代:辰吉丈一郎(大阪帝拳)

★2000年代:長谷川穂積(真正=帝拳)

★2010年代:井岡一翔(井岡→フリー)/亀田興毅(協栄)/井上尚弥(大橋=帝拳)/村田諒太(帝拳)


団体分裂から日本ボクシング界をリードしたのは協栄、そして帝拳でした。

具志堅用高を擁して勢力を拡大した協栄の手法は、白井義男から続く「肥沃な日本市場に依存した20世紀型」。

米国への窓口を広げて、ジムの垣根を越えて有力選手の代理人を担った帝拳は「世界進出を掲げた21世紀型」のプロモーターでした。

マイク・タイソンの2試合をプロモートして、世界的なプロモーターとして認知された帝拳は、三浦隆司や亀海喜寛、中谷正義ら、米国で需要があり実力者とも対戦できる機会が多いクラスの選手を積極的に太平洋を渡らせ、大きな道筋を作りました。

世界挑戦のチャンスがままならない、世界トップの実力も怪しい亀海が日本で戦っても1000万円の報酬を安定的に手にすることは難しかったでしょう。しかし、米国では事情が違うのです。

それは、従来路線の協栄とは一線を画す偉大な功績です。

米国のプロモーターはもちろん、コアなファンにも「日本選手は規律を重んじ、体重超過や試合を諦めることは絶対にしない」と評価を得ているのは三浦や亀海の奮闘努力と、帝拳のお陰といっても過言ではありません。

しかし…ジュニアフェザー級以下の軽量級における、特にエース格のボクサーのマネジメントは欺瞞に満ちたものでした。

長谷川穂積と西岡利晃、そして井上尚弥。 ウェルター級の亀海とは全く事情の違う、米国で需要の低い超軽量級の3人ですが、正直に「ラスベガスに夢はない」と言ってしまうのはビジネスとして難しいのは理解できます。

もし、人気階級でもこの3人のレベルのボクサーが日本にいたなら、胸を張って米国に送り出し、超軽量級の選手は基本的に国内限定で棲み分けが出来たかも知れません。

しかし、現実には世界基準にあるのは、米国では全く関心が払われない超軽量級…。 

帝拳は、協栄と同じように、禁断の果実に手を伸ばしてしまいます。