Hawk Time! Hawk Time!

〝ジュニアの恩恵〟に二つの種類があるのは周知の通りです。


一つは純粋階級では通用しないボクサーが受ける「駆け込み寺」としての〝ジュニアの恩恵〟。

もう一つはその逆、途轍もない実力のジュニア階級王者を閉じ込める「猛獣の檻」という純粋階級の王者にとっての〝ジュニアの恩恵〟。

アーロン・プライアーは間違いなく後者でした。

シンシナティの荒鷲が閉じ込められた檻から解放されなかったことで、一体何人の世界王者が命拾いしたことでしょうか。
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ときどきご紹介しているリング誌の名物コーナー ADVANCED DEGREES(どんなに時代が離れても彼らは繋がっている)。

パッキャオやデュランら野生の強打者と比較されることの多いプライアーですが、偉大にも程があるヘンリー・アームストロングもその1人です。

約50年の時空を超えて、2人はわずか5ステップで対決のリングに上がることができます。


アームストロング→シュガー・レイ・ロビンソン→デニー・モイヤー→ラファエル・ロドリゲス→カール・クローリー→プライアー

プライアーは1955年10月9日生まれ。わずか13歳という年齢で、シンシナティのダウンタウンで喧嘩無敵となった少年がボクシングを始めると、あっという間に上達。

最初にその名を馳せたのは1973年の全米vsアイルランドの対抗戦。125ポンド級に出場したプライアーは1ラウンドで相手を叩きのめしました。現地シカゴの記者は「あの凶暴性は絶対にプロ向き」と18歳の才能を見抜いていました。

1973年のAmateur Athletic Union(AAU)=日本でいう国体=では132ポンド級で優勝するも、翌1974年の同大会は決勝でヒルマー・ケンティに惜敗。

それでも1975年には全米ゴールデングローブ132ポンド級で、のちの北米ライト級王者カーティス・ハリスを下して優勝。2連覇がかかった翌1976年大会でも圧倒的な強さで優勝。決勝の相手はトーマス・ハーンズでした。

この年は五輪イヤー、モントリオール1976出場を渇望していたプライアーでしたが、決勝で当時米国最高のアマ、ハワード・デービスに敗れて補欠にとどまります。

ちなみにモントリオールでは大会最優秀選手賞を受賞したデービスを筆頭にレイ・レナード、レオン&マイケルのスピンクス兄弟、レオ・ランドルフの5人が金メダルに輝き、全米ボクシング記者協会(BWAA)がこの5人を Fighter of the Year に選出しています。

アマチュアが選出されたのは現在まで、このときだけ。史上唯一の異例の〝事件〟でした。

あと一歩で競り負けたライバルが国民的英雄になるのを見たプライアーは「彼らが大活躍するのを素直に受け入れられない自分が情けない」と泣きました。

「五輪に出場できなかったんだからボクシングはやめよう」と悩んだプライアーを救ったのは、一通の手紙でした。

「五輪予選決勝でデービスに負けたが、君の戦い方に感動した。私はもっと君が見たい」。

手紙の主はジェラルド・R・フォード。

アメリカ合衆国第38代大統領でした。

プロボクシング人気はすでに下り坂だったとはいえ、当時の五輪予選は準々決勝から地上波生中継されていました。フォード大統領も熱心にテレビ観戦していたのです。

思いがけない励ましにプライアーは決意を新たにします。

あまたの強豪としのぎを削ったアマチュア戦績は204勝16敗。

プライアーは間違いなくエリートアマでしたが、そのプロ向きの実力まで見通していたのはシカゴ・トリビューンの記者とフォード大統領ら少数派でした。

確かな実力と恐るべき潜在力を秘めたプライアー。

それにしても、国民的英雄の五輪五人組と同期だったのは、最悪のタイミングでした。

もし、プライアーがデービスに勝っていたら?あるいは、あの5人組と時代が少しでもズレていたら? 

強力なプロモートと支援体制で、ライト級やウェルター級のビッグネームといくつかのメガファイトがスムースに組まれていたはずです。

しかし、そのイフが現実になっていればデービスに取り憑いた達成感と自惚れが、プライアーにまとわり付いていたかもしれません。

そして、何よりも…もしプライアーが生まれる時代が違っていたら、私たちはあの素晴らしい激闘、名勝負を目にすることが出来なかったのです。