現在のスーパーミドル級は絢爛豪華なクラスです。

英国ではヘビー級に次ぐ人気を博し、世界的にもカネロ・アルバレスが片足を踏み入れているプレミアム・クラスです。

ミドル級が事実上の上限クラスの日本では、重量級三役(スーパーミドル/ライトヘビー/クルーザー)への関心は非常に低いのですが、極東アジアが到達した最重量級はスーパーミドルです。

スーパーミドル級が湧いて出たのは1984年。その前年にWBA傘下の全米ボクシング協会(USBA:NABF北米タイトルを承認してきました)が〝米国復古〟を標榜して独立、IBFが肝いりで創設した新設階級です。

水増し階級は、必ず見苦しい言い訳とセットになって生まれますが、スーパーミドルは「ミドル(160lb)とライトヘビー(175lb)の階級差は大き過ぎる。3〜4ポンドで刻まれる軽量級なら5階級がすっぽり収まる」というものでした。

WBAとWBCは「これ以上階級を増やすのはボクシングの地位を脅かす愚行」とIBFに反対、2年以上も同調せず、メディアにも共感を促しました。

もちろん、その本音は正義のためなどではなく、勢力を伸ばす新興ライバル団体を潰しにかかっていたのです。

実際、3年後にはAもCもスーパーミドルを創設、やはりIBFが1987年に105lb=ミニフライ級を創設すると今度は恥も外聞もなく半年も経たずにAとCも105lbにタイトルを設けるのでした。

「スーパー表記には従わない」リング誌やESPNなどのメディアでも、さすがにスーパーミドル級は「ジュニアライトヘビー級」と呼ぶことは出来ず、新生スーパーミドルが立ち上がりました。

スーパーミドルが日本のボクシングファンから怪しく胡散臭く映ったのは、こうした腐敗承認団体の卑しい思惑が透けて見えたからだけではありません。

このIBFスーパーミドルはAとCが無視、欧米メディアもIBFの階級増殖の方針に異議を唱えたこともあり、168lbという欧米の才能が集まりやすい規格にもかかわらず、最初の約3年間は日陰の時代を強いられます。

しかし、欧米の無視は思わぬ結果をもたらします。

この3年間こそが「韓国、スーパーミドルの春」です。

体格で欧米に劣るアジアでしたが、韓国は屈強なミドル級を輩出してきました。

OPBFミドル級王者を経てジュニアミドル級で韓国初の世界王者となった金基洙。やはりOPBFミドル級王座を21連続防衛し、輪島功一と死闘を繰り広げた柳済斗。

彼らが生まれるのがもう少し遅ければ、1階級下のジュニアミドルだけではなく上のスーパーミドルでも覇権を打ち立てていたでしょう。

そして、現実にスーパーミドルのベルトを巻いたのが「一瞬の夏」で最強キャラとして登場する朴鐘八と、憎たらしい日本人キラー白仁鉄です。

初代IBFスーパーミドル級王者マレイ・サザーランド(英国)はマシュー・サード・ムハンマドやマイケル・スピンクスにも挑戦経験があるライトヘビー級の強豪でした。
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1984年7月22日、大事なはずの初防衛戦で敵地韓国・ソウルに乗り込み23歳の朴鐘八が待つリングに上がったことは、サザーランドもIBFスーパーミドルというタイトルも「世界」の重みを持っていなかったことの証左です。

サザーランドを11ラウンドKOで粉砕した朴は8連続防衛。IBFにしかスーパーミドル級は存在していなかったのですから、この王座はもちろんUndisputed Champion でありLineal Champion でした。

タイトル奪取のサザーランド戦も含めたIBF9試合で朴が勝利したボクサーで名前があるのは、ヘロール・グラハムやアユブ・カルレ(のちの世界ジュニアミドル級王者)との対戦経験もあるリンデル・ホームズくらいで、信じられないような雑魚レベルの挑戦者が名前を連ねます。

IBFタイトルの韓国寡占状態は韓国内でも批判が多く、朴は王座を返上してWBA王座決定戦に舵を切ります。

相手は18勝17KO1敗と戦績だけはスリラーなメキシコ人、ヘスス・ガラード。1987年12月6日、釜山のリングでガラードは予定どおりに2ラウンドで散ります。

朴はIBFとWBA二つの団体で初代スーパーミドル級王者として名前を残しました。

初防衛戦は大和田正春を撃退したOPBFミドル級王者ポーリー・パシレロン。プロキャリア4勝2敗(ボクシングマガジンなど日本の報道では14勝3敗1分)のインドネシア人を5ラウンドKOで下して初防衛に成功した朴は、ついにキャリア最強の相手を迎えます。

フルヘンシオ・オベルメシアス、ベネズエラの怪人フリー・オベルです。7年前に敵地カラカスで8ラウンドKOで沈められている因縁の相手。

オベルはモントリオール1976に出場したオリンピアン。プロデビューから30連勝27KOの破竹の快進撃で1981年に世界初挑戦、8ラウンドで力尽きますが、そこから8連勝全KOで翌1982年、再びチャンスを獲得しましたが、今度は5ラウンドKO負け…。

オベルが勝負弱かったわけでも、実力不足だったわけでもありません。


単純に相手が強すぎた、完全統一ミドル級王者があまりにも強すぎた、それだけでした。

オベルが東洋無敵の朴をユナニマスデジションで返り討ちにしたとき、私たちは世界ミドル級の頂がいかに峻厳であるかに戦慄したものです。

「あのオベルでもハグラーには何も出来なかったのか…」。ため息をつくしかありませんでした。

そして、このオベルの初防衛戦に名乗りを上げたのが白でした。

1989年5月韓国・麗水市。27歳の白は44勝42KO2敗、プライムタイムでした。結果は11ラウンドTKOで36歳のオベルを倒します。

「もう2度と戻らない」と諦められていた168lbのタイトルを韓国に取り戻したのです。

白はロン・エセットと田島吉秋をストップして2度の防衛に成功、3度目の防衛戦はパリで地元のクリストフ・ティオゾに6ラウンドTKO負け、この試合で引退します。まだ28歳でしたが、キャリアは47勝43KO3敗、50戦を数えていました。

IBFとスーパーミドル。その黎明期は、団体と階級の〝二重の水増し〟でした。

朴鐘八と白仁鉄。日本人にとってついに一矢も報えなかった〝重量級〟の文字通り重く分厚い壁でした。

2人の韓国人のプリズムを通して映し出された、当時の世界ボクシングの中心、マービン・ハグラーがいかに巨大に見えたことか…。

それにつけても…。当時の「IBF」と「スーパーミドル」は、韓国の重量級選手にとっては劇薬でした。

韓国ボクシングの〝死因〟は複数考えられますが、IBFがらみの相次いだ不祥事で衰退が加速したのは間違いありません。

不倶戴天のライバル、韓国ボクシングの消失はかえすがえすも残念でなりません。 

彼らが健在であったなら、いまのボクシングシーンにどれほどの深い彩りを与えてくれていたことでしょうか。