WOWOWの「エキサイトマッチ30周年SP〜レジェンド名勝負選「黄金の中量級」特集」が始まるのに合わせて、2019/03/31に書いたお話の引き揚げです…。
時代の変遷が記憶を稀釈してしまうのは、自然の摂理です。
時代を超えて語られ続ける存在もあれば、時間によって濾過されてしまう人生もあります。
ビートルズの初期メンバー、スチュアート・サトクリフのように、ウィルフレド・ベニテスはいつも〝五番目の男〟でした。
そして、サトクリフが21歳で生涯を閉じたように、ベニテスもまた急降下で墜落する飛行機のような人生を辿るのです。
いや、ベニテスはまだ生きています。
1958年9月12日生まれ、60歳になるベニテスが「レナード=ハグラー=ハーンズ=デュラン」のクラブへの入会が許されずにいる理由、つまり「FOUR KINGS」ではなく「FIVE KINGS」と語り継がれなかった原因は、偉大なラウンドロビン(総当たり)の宇宙の中でマービン・ハグラーとだけ拳を交えるチャンスに恵まれなかったから、なのかもしれません。
しかし、デュランをボクシングで封じ込め、レナードを追い込み、ハーンズを判定までもつれさせた事実をボクシングファンは忘れてはなりません。
ベニテスはあろうことか17歳で、あのアントニオ・セルバンテスを競り落とし初戴冠、三階級制覇まで達成したのです。
それなのに、彼の偉業は正しく評価されていません。
あのリング誌ですら1980年代PFPで、ウィルフレド・ベニテスの名を10傑に刻むことを失念してしまっているのです。

稀代の天才がボクシングの道へ進んだのは、父親グレゴリオの影響でした。
「最初に女の子を授かった。それから男の子。男の子が生まれたらボクサーにしようと決めていたんだ」。
4人の男の子は父親の希望通りにプロボクサーになりました。
グレゴリオJr.、フランキー、アルフォンソ、3人の兄たちはみんな才能に恵まれていましたが、末っ子のベニテスの天賦はボクシングを始めた8歳のときから別の次元だったと伝えられています。
15歳でプロ転向。わずか2年で世界王者に登りつめるのです。しかも、10連続防衛中のセルバンテスを攻略して。
無敗のまま世界王者になり、米国メディアから「本物の天才」と絶賛された17歳の少年の敵は、リングの中にいるわけがありません。
プエルトリコの金持ち連中にとって、母国の英雄ベニテスをパーティに呼ぶことがステイタスになりました。
それは米国のボクシグ界でも同じでした。
カネも酒も女も、向こうから津波のように押し寄せてきました。10代の少年にとって、その波に溺れないなんて選択肢はありえません。
それでも、驚くべきことに、ベニテスは勝ち続けるのです。
二階級制覇をかけたカルロス・パロミノ戦(1979年1月14日)についてベニテスは「戦う準備は全くできていなかった」と二年後に告白しています。
「中盤にはスタミナが切れて、足も動かなくなってしまった。立っているのもやっとの状態だったから、ずっとロープにもたれてたんだ」。
しかし、メディアやファンの目には、ベニテスが伝説的なウェルター級王者をロープに誘い込み、効果的なカウンターを打ち込み続ける高等技術を披露しているようにしか見えませんでした。
そして…。貴重な授業になるはずだったパロミノ戦からも、ベニテスは学ぼうとはしませんでした。
練習をさぼりながら、酒と女に溺れながら、初防衛をクリア。
しかし、二度目の防衛戦はごまかしなどきかない相手でした。
トレーナーを務める父グレゴリオも「セルバンテスもパロミノも強敵だったが、今度の相手は若くてスピードもパワーも彼らよりもはるかに上だ」と真面目に練習するように促しますが、聞く耳など持ちません。
「若い?奴は23歳、俺はまだ21歳だ。俺の方が若い。スピードとパワー?じゃあ、そいつは俺よりもボクシングが巧いのか?」。
「お前よりボクシングが巧い奴など世の中にいるわけがない。でも、それだけじゃ勝てないこともあるんだ。それだけじゃ…」。
父親の箴言をベニテスは「ボクシングは技術だけで勝てるスポーツだ。それは俺のキャリアが証明している。巧いやつが強い、巧いやつが勝つ、そういうスポーツなのさ」と笑い飛ばすのでした。
父親も陣営の誰もが、今度の相手が実力以上にとんでもない強敵であるとわかっていました。
「相手は強いだけじゃない。米国のテレビが作り上げた怪物だ。仕組まれたリングで勝つのは並大抵のことじゃない。微妙な判定では絶対に勝てない、明白な形でなければ勝てない」。
“My father would say, ‘Train.’ I would say, ‘No.’ But if I train, then I am the best boxer in the world.” 父親は「練習しろ」とうるさかった。俺はいつも「嫌だね」と答えてた。そりゃそうさ。その気になれば、俺はいつでも世界最高のボクサーになれるんだから。
人生に、ボクシングにタラレバなどあるはずがありません。
しかし、ベニテスが真面目に練習して1979年11月30日シーザースパレスのメガファイトのリングに上がっていたら…。
ベニテスがレナードを弄んだ挙句、勝利を収めていたでしょう。
▶︎▶︎▶︎明後日のWOWOWが放送するのは、1979年11月30日/アメリカ・ネバダ州ラスベガス シーザースパレス スポーツ・パビリオンで行われた「ベニテスvsレナード」です。
この試合は、誰が解説してくれるのでしょうか?
大昔に文藝春秋が発売したビデオ(日本人向け・日本人好みの「Fabulous4」がタイトルでした)では「レナハン」を浜田剛史がじっくりと解説してくれていました。今回も〝琉球の侍〟の声が聞きたいです!
ビートルズは「FOUR KINGS」ではなく「Fabulous4」と称されることが多く、これはボクシングと音楽の違いかもしれません。
ああ、でも「キング・オブ・ホップ」マイケル・ジャクソンはいますね…。
お前は「FOUR KINGS」と「Fabulous4」のどっちか一つしかか選べない、と神様だか悪魔だかに迫られたら…?
これは、究極の選択です。
とにも、かくにも!
二人の天才が撒き散らす、色鮮やかなな拳の交錯を刮目して見よ!!!
時代の変遷が記憶を稀釈してしまうのは、自然の摂理です。
時代を超えて語られ続ける存在もあれば、時間によって濾過されてしまう人生もあります。
ビートルズの初期メンバー、スチュアート・サトクリフのように、ウィルフレド・ベニテスはいつも〝五番目の男〟でした。
そして、サトクリフが21歳で生涯を閉じたように、ベニテスもまた急降下で墜落する飛行機のような人生を辿るのです。
いや、ベニテスはまだ生きています。
1958年9月12日生まれ、60歳になるベニテスが「レナード=ハグラー=ハーンズ=デュラン」のクラブへの入会が許されずにいる理由、つまり「FOUR KINGS」ではなく「FIVE KINGS」と語り継がれなかった原因は、偉大なラウンドロビン(総当たり)の宇宙の中でマービン・ハグラーとだけ拳を交えるチャンスに恵まれなかったから、なのかもしれません。
しかし、デュランをボクシングで封じ込め、レナードを追い込み、ハーンズを判定までもつれさせた事実をボクシングファンは忘れてはなりません。
ベニテスはあろうことか17歳で、あのアントニオ・セルバンテスを競り落とし初戴冠、三階級制覇まで達成したのです。
それなのに、彼の偉業は正しく評価されていません。
あのリング誌ですら1980年代PFPで、ウィルフレド・ベニテスの名を10傑に刻むことを失念してしまっているのです。

9度防衛とはいえ注目度もレベルも低いバンタム級ジェフ・チャンドラーを10位に滑り込ませ、1位レナードの「重要な対戦相手」でも凡庸なアユブ・カルレを挙げながらベニテスの名を忘却しているのです。
ボクシグ史に残る天才ボクサーは、40歳を健康な形で迎えることが出来ませんでした。
プロ62戦で蓄積されたダメージから、ボクサー型の認知症を患い、38歳の時に母親宅のリビングで倒れて昏睡状態に陥ってしまったのです。
救急車が駆けつけ、診断した医師から家族は「最悪の事態を覚悟するように」と告げられてしまいます。
1990年9月の試合を最後に引退。それから6年の歳月は、ベニテスの心身を酷く蝕んでいました。
昏睡状態からは回復したものの、認知症は進行、肉体も精神も自由がきかなくなっていきます。
ボクシグ史に残る天才ボクサーは、40歳を健康な形で迎えることが出来ませんでした。
プロ62戦で蓄積されたダメージから、ボクサー型の認知症を患い、38歳の時に母親宅のリビングで倒れて昏睡状態に陥ってしまったのです。
救急車が駆けつけ、診断した医師から家族は「最悪の事態を覚悟するように」と告げられてしまいます。
1990年9月の試合を最後に引退。それから6年の歳月は、ベニテスの心身を酷く蝕んでいました。
昏睡状態からは回復したものの、認知症は進行、肉体も精神も自由がきかなくなっていきます。
「最初に女の子を授かった。それから男の子。男の子が生まれたらボクサーにしようと決めていたんだ」。
4人の男の子は父親の希望通りにプロボクサーになりました。
グレゴリオJr.、フランキー、アルフォンソ、3人の兄たちはみんな才能に恵まれていましたが、末っ子のベニテスの天賦はボクシングを始めた8歳のときから別の次元だったと伝えられています。
15歳でプロ転向。わずか2年で世界王者に登りつめるのです。しかも、10連続防衛中のセルバンテスを攻略して。
無敗のまま世界王者になり、米国メディアから「本物の天才」と絶賛された17歳の少年の敵は、リングの中にいるわけがありません。
プエルトリコの金持ち連中にとって、母国の英雄ベニテスをパーティに呼ぶことがステイタスになりました。
それは米国のボクシグ界でも同じでした。
カネも酒も女も、向こうから津波のように押し寄せてきました。10代の少年にとって、その波に溺れないなんて選択肢はありえません。
それでも、驚くべきことに、ベニテスは勝ち続けるのです。
二階級制覇をかけたカルロス・パロミノ戦(1979年1月14日)についてベニテスは「戦う準備は全くできていなかった」と二年後に告白しています。
「中盤にはスタミナが切れて、足も動かなくなってしまった。立っているのもやっとの状態だったから、ずっとロープにもたれてたんだ」。
しかし、メディアやファンの目には、ベニテスが伝説的なウェルター級王者をロープに誘い込み、効果的なカウンターを打ち込み続ける高等技術を披露しているようにしか見えませんでした。
そして…。貴重な授業になるはずだったパロミノ戦からも、ベニテスは学ぼうとはしませんでした。
練習をさぼりながら、酒と女に溺れながら、初防衛をクリア。
しかし、二度目の防衛戦はごまかしなどきかない相手でした。
トレーナーを務める父グレゴリオも「セルバンテスもパロミノも強敵だったが、今度の相手は若くてスピードもパワーも彼らよりもはるかに上だ」と真面目に練習するように促しますが、聞く耳など持ちません。
「若い?奴は23歳、俺はまだ21歳だ。俺の方が若い。スピードとパワー?じゃあ、そいつは俺よりもボクシングが巧いのか?」。
「お前よりボクシングが巧い奴など世の中にいるわけがない。でも、それだけじゃ勝てないこともあるんだ。それだけじゃ…」。
父親の箴言をベニテスは「ボクシングは技術だけで勝てるスポーツだ。それは俺のキャリアが証明している。巧いやつが強い、巧いやつが勝つ、そういうスポーツなのさ」と笑い飛ばすのでした。
父親も陣営の誰もが、今度の相手が実力以上にとんでもない強敵であるとわかっていました。
「相手は強いだけじゃない。米国のテレビが作り上げた怪物だ。仕組まれたリングで勝つのは並大抵のことじゃない。微妙な判定では絶対に勝てない、明白な形でなければ勝てない」。
“My father would say, ‘Train.’ I would say, ‘No.’ But if I train, then I am the best boxer in the world.” 父親は「練習しろ」とうるさかった。俺はいつも「嫌だね」と答えてた。そりゃそうさ。その気になれば、俺はいつでも世界最高のボクサーになれるんだから。
人生に、ボクシングにタラレバなどあるはずがありません。
しかし、ベニテスが真面目に練習して1979年11月30日シーザースパレスのメガファイトのリングに上がっていたら…。
ベニテスがレナードを弄んだ挙句、勝利を収めていたでしょう。
▶︎▶︎▶︎明後日のWOWOWが放送するのは、1979年11月30日/アメリカ・ネバダ州ラスベガス シーザースパレス スポーツ・パビリオンで行われた「ベニテスvsレナード」です。
この試合は、誰が解説してくれるのでしょうか?
大昔に文藝春秋が発売したビデオ(日本人向け・日本人好みの「Fabulous4」がタイトルでした)では「レナハン」を浜田剛史がじっくりと解説してくれていました。今回も〝琉球の侍〟の声が聞きたいです!
ビートルズは「FOUR KINGS」ではなく「Fabulous4」と称されることが多く、これはボクシングと音楽の違いかもしれません。
ああ、でも「キング・オブ・ホップ」マイケル・ジャクソンはいますね…。
お前は「FOUR KINGS」と「Fabulous4」のどっちか一つしかか選べない、と神様だか悪魔だかに迫られたら…?
これは、究極の選択です。
とにも、かくにも!
二人の天才が撒き散らす、色鮮やかなな拳の交錯を刮目して見よ!!!

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