ずっと、ずっと昔、25年も前の話です。
25年前、もう四半世紀も経ちました。
1993年。日本スポーツ史を変えた、エポックの年です。
Jリーグ開幕。
私はまだ20代、同じ大学のサッカー部に所属していた友人に案内されてJリーグの観戦に三ツ沢競技場に繰り出しました。
三ツ沢は1981年、神奈川インターハイが開催された場所でもあります。
当時、中学生の私は出場すべくもありませんでしたが、インターハイに出場する高校の先輩を新大阪駅まで見送りに行ったことははっきり覚えています。
その三ツ沢は、大学時代に何度か陸上競技の記録会で陸上競技場では走っていますが、専用サッカー場に入ったのは初めてでした。
横浜マリノスvs横浜フリューゲルスの〝横浜ダービー〟。
前評判が高く、チームロゴもおしゃれなマリノスの応援をしようと考えていましたが、マリノス側のスタンドはまさか(当然?)のソールドアウト。
私は「ちゃんと前売り券くらい買ってから人を誘え!」と友人に悪態をつきながら、フリューゲルスのグッズを買って席に着きました。
マリノスはヴェルディ川崎と人気実力を分け合うビッグクラブ。
一方のフリューゲルスは「その実力がないのにJリーグ開幕10チームに無理やりはめ込んだお荷物クラブ」と揶揄されていました。
しかし、試合は負けたものの内容は大健闘、専用グランドの近い距離で見るサッカーは迫力十分でした。
フリューゲルスがフリーキックのチャンスをつぶすたびに、友人は「(怪我で出場できない)エドゥーがいたら面白かったのに」とつぶやいていました。
「エドゥー?そいつならゴール前のFWにフリーキックをきっちり合わせられたのか?」。
私が聞くと友人は「いや、エドゥーなら直接狙う」と即答しました。
名将・加茂周が掲げた「ゾーンプレス」からは、未来の甘い香りが漂っていました。
魅力的な選手も沢山いました。
超長距離からフリーキックを決めるエドゥーに、コミカルだけどすぐ激昂するモネール。そしてゴールを守るのは、レゲエを愛するドレッドヘアの森敦彦。
開幕前に「お荷物」と馬鹿にされたチームでも、のちに日本代表を率いる加茂監督とこの3人のプレイヤーは、Jリーグを代表する顔でした。
私は、あの日偶然、そのスタンドに座ることになったフリューゲルスにたちまち夢中になりました。
そして記念すべきJリーグ元年の天皇杯で、フリューゲルスは番狂わせを連発、決勝でもJリーグ王者の鹿島アントラーズを下して優勝するのです。
しかし1995年、森は浦和レッズ戦で判定を不服として審判に肩をぶつける愚行を犯してしまいます。ペナルティは、なんと出場停止3ヶ月。
非常に重い罰でしたが、仕方がありません。森はそういう罪を犯してしまったのです。
その時、森の代役として急遽ゴールを守ったのが楢崎正剛でした。
キーパーというポジションの性格から、もし23歳の森があんな愚行を犯さなければ、楢崎の出番は永遠に訪れなかったかもしれません。
楢崎がゴールを守った3年間は、フリューゲルスのプライムタイムでした。
翌1996年は開幕8連勝、楢崎に守られたゴールのネットは6試合も揺らされることがありませんでした。
人気者の前園真聖の運動量が落ちると一切の忖度なく後退させる冷静なオタシリオ監督の指揮下、ジーニョ、サンパイオの当時のブラジル代表のレギュラーに、山口素弘、三浦淳宏が躍動、優勝争いを繰り広げました。
ああ、そういえば1998年フランスW杯の開幕戦、大会初ゴールを決めたのがサンパイオでした。
世界中のテレビ画面に、サンパイオの所属クラブ「Yokohama Flügels」が刻まれたことを思うと、誇らしくてたまりませんでした。
しかし、まさか、その年に、これ以上無い悲劇が待ち構えているとは。
横浜フリューゲルスは消滅。
横浜フリューゲルス オフィシャルマガジン「F!」も1998年12月号、通算21号で終わりました。最後の号の表紙はビックリマークが一つ…。そして、本来なら発行されるはずの3月号までの代金が郵便書留で返金されました。ものすごく悲しかったです。
私はサッカーへの情熱、といってもそれはフリューゲルスへの愛情でしたから、急速に冷めてしまいました。
今も各年代の代表チームは応援します。
1998年、負けた時点でチームは終わり、という状況で戦い抜いた天皇杯。
あなたたちは「優勝する」と宣言して、見事にそれを実行してくれました。
最後の21号が届けられた、約1ヶ月後、チームは消滅したはずなのに「F!特別号」が届けられました。
「やったぞ、見たか、という感じです。(クラブ消滅をやむなしとした)全日空と川淵さんには」と、静かに語った楢崎の声を忘れません。
「横浜フリューゲルス」の名前を、20年間も守ってくれて本当にありがとうございました。
これからは日本サッカー史上最高の偉大なゴールキーパーの、自分のために、自分のサッカーを全うして下さい。
あなたがフリューゲルスの守護神であったことは、一生忘れません。
25年前、もう四半世紀も経ちました。
1993年。日本スポーツ史を変えた、エポックの年です。
Jリーグ開幕。
私はまだ20代、同じ大学のサッカー部に所属していた友人に案内されてJリーグの観戦に三ツ沢競技場に繰り出しました。
三ツ沢は1981年、神奈川インターハイが開催された場所でもあります。
当時、中学生の私は出場すべくもありませんでしたが、インターハイに出場する高校の先輩を新大阪駅まで見送りに行ったことははっきり覚えています。
その三ツ沢は、大学時代に何度か陸上競技の記録会で陸上競技場では走っていますが、専用サッカー場に入ったのは初めてでした。
横浜マリノスvs横浜フリューゲルスの〝横浜ダービー〟。
前評判が高く、チームロゴもおしゃれなマリノスの応援をしようと考えていましたが、マリノス側のスタンドはまさか(当然?)のソールドアウト。
私は「ちゃんと前売り券くらい買ってから人を誘え!」と友人に悪態をつきながら、フリューゲルスのグッズを買って席に着きました。
マリノスはヴェルディ川崎と人気実力を分け合うビッグクラブ。
一方のフリューゲルスは「その実力がないのにJリーグ開幕10チームに無理やりはめ込んだお荷物クラブ」と揶揄されていました。
しかし、試合は負けたものの内容は大健闘、専用グランドの近い距離で見るサッカーは迫力十分でした。
フリューゲルスがフリーキックのチャンスをつぶすたびに、友人は「(怪我で出場できない)エドゥーがいたら面白かったのに」とつぶやいていました。
「エドゥー?そいつならゴール前のFWにフリーキックをきっちり合わせられたのか?」。
私が聞くと友人は「いや、エドゥーなら直接狙う」と即答しました。
名将・加茂周が掲げた「ゾーンプレス」からは、未来の甘い香りが漂っていました。
魅力的な選手も沢山いました。
超長距離からフリーキックを決めるエドゥーに、コミカルだけどすぐ激昂するモネール。そしてゴールを守るのは、レゲエを愛するドレッドヘアの森敦彦。
開幕前に「お荷物」と馬鹿にされたチームでも、のちに日本代表を率いる加茂監督とこの3人のプレイヤーは、Jリーグを代表する顔でした。
私は、あの日偶然、そのスタンドに座ることになったフリューゲルスにたちまち夢中になりました。
そして記念すべきJリーグ元年の天皇杯で、フリューゲルスは番狂わせを連発、決勝でもJリーグ王者の鹿島アントラーズを下して優勝するのです。
しかし1995年、森は浦和レッズ戦で判定を不服として審判に肩をぶつける愚行を犯してしまいます。ペナルティは、なんと出場停止3ヶ月。
非常に重い罰でしたが、仕方がありません。森はそういう罪を犯してしまったのです。
その時、森の代役として急遽ゴールを守ったのが楢崎正剛でした。
キーパーというポジションの性格から、もし23歳の森があんな愚行を犯さなければ、楢崎の出番は永遠に訪れなかったかもしれません。
楢崎がゴールを守った3年間は、フリューゲルスのプライムタイムでした。
翌1996年は開幕8連勝、楢崎に守られたゴールのネットは6試合も揺らされることがありませんでした。
人気者の前園真聖の運動量が落ちると一切の忖度なく後退させる冷静なオタシリオ監督の指揮下、ジーニョ、サンパイオの当時のブラジル代表のレギュラーに、山口素弘、三浦淳宏が躍動、優勝争いを繰り広げました。
ああ、そういえば1998年フランスW杯の開幕戦、大会初ゴールを決めたのがサンパイオでした。
世界中のテレビ画面に、サンパイオの所属クラブ「Yokohama Flügels」が刻まれたことを思うと、誇らしくてたまりませんでした。
しかし、まさか、その年に、これ以上無い悲劇が待ち構えているとは。
横浜フリューゲルスは消滅。

私はサッカーへの情熱、といってもそれはフリューゲルスへの愛情でしたから、急速に冷めてしまいました。
今も各年代の代表チームは応援します。
しかし、もう特定のクラブに肩入れする気にはなれません。
あの年、楢崎は山口とともに、名古屋のビッグクラブ、グランパスエイトに移籍します。
あれから20年。
名古屋のユニフォームを着続けた楢崎の移籍が濃厚、というニュースが飛び込んできました。
これまで、楢崎が名古屋にとどまった理由の一つには「もし移籍したら〝元横浜フリューゲルス〟という但書きが消えてしまう」と考えていた、といわれています。
横浜フリューゲルスをこよなく愛したサポーターの一人として、楢崎がフリューゲルスに果たす義理など最初から全く感じておりません。
それどころか、こちらこそグランパスや代表で大活躍した楢崎のような才能を、十分応援できたかどうか、本当に申し訳なかったと思います。
フリューゲルスが消滅した責任はサポーターにもあります。同じことが浦和や清水に起きても、クラブは消えなかったでしょう。
あの年、楢崎は山口とともに、名古屋のビッグクラブ、グランパスエイトに移籍します。
あれから20年。
名古屋のユニフォームを着続けた楢崎の移籍が濃厚、というニュースが飛び込んできました。
これまで、楢崎が名古屋にとどまった理由の一つには「もし移籍したら〝元横浜フリューゲルス〟という但書きが消えてしまう」と考えていた、といわれています。
横浜フリューゲルスをこよなく愛したサポーターの一人として、楢崎がフリューゲルスに果たす義理など最初から全く感じておりません。
それどころか、こちらこそグランパスや代表で大活躍した楢崎のような才能を、十分応援できたかどうか、本当に申し訳なかったと思います。
フリューゲルスが消滅した責任はサポーターにもあります。同じことが浦和や清水に起きても、クラブは消えなかったでしょう。
1998年、負けた時点でチームは終わり、という状況で戦い抜いた天皇杯。
あなたたちは「優勝する」と宣言して、見事にそれを実行してくれました。

「やったぞ、見たか、という感じです。(クラブ消滅をやむなしとした)全日空と川淵さんには」と、静かに語った楢崎の声を忘れません。
「横浜フリューゲルス」の名前を、20年間も守ってくれて本当にありがとうございました。
これからは日本サッカー史上最高の偉大なゴールキーパーの、自分のために、自分のサッカーを全うして下さい。
あなたがフリューゲルスの守護神であったことは、一生忘れません。
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