タイトルは「哀愁の日本チャンピオン」ですが、ライト級やウエルター級ミドル級、米国で人気階級であるがゆえに、日本一になっても次の山が目指せない、悲しいチャンピオンのブルースです。
世界の扉には何重ものロックがかけられ、誰もその開き方が分からなかった時代の、切ないチャンピオンのエレジーです。
米国で関心を持たれない軽量級では、日本王者にもならないでいきなり世界挑戦するような時代もありました。今でも中国の呂斌(ルー・ビン)がデビュ−2戦目でWBAジュニアフライ級に挑戦(7月15日のマティセvsパッキャオの前座)したことを筆頭に、欧米の人気階級ではありえないスピード挑戦が、軽量級では看過されています。
かつて、無敗のまま日本と東洋(OPBF)のミドル級王座に就いていた竹原慎二は、軽量級でプロデビュー前のホープが「世界王者になりたい」と軽々しく口にするのを何度も聞いて、そのたびに苦々しい思いをしたと言います。
米国で人気のミドル級と軽量級では、その敷居の高さは全く違うのです。
世界と陸続きではない、中量級、それも純正階級の日本タイトル。具体的にはライト級とウェルター級、ミドル級です。
日本とアジアの王者になると行き止まりの悲しい階級です。
それでも奮闘努力したGood Loserの物語です。
世界の扉には何重ものロックがかけられ、誰もその開き方が分からなかった時代の、切ないチャンピオンのエレジーです。
米国で関心を持たれない軽量級では、日本王者にもならないでいきなり世界挑戦するような時代もありました。今でも中国の呂斌(ルー・ビン)がデビュ−2戦目でWBAジュニアフライ級に挑戦(7月15日のマティセvsパッキャオの前座)したことを筆頭に、欧米の人気階級ではありえないスピード挑戦が、軽量級では看過されています。
かつて、無敗のまま日本と東洋(OPBF)のミドル級王座に就いていた竹原慎二は、軽量級でプロデビュー前のホープが「世界王者になりたい」と軽々しく口にするのを何度も聞いて、そのたびに苦々しい思いをしたと言います。
米国で人気のミドル級と軽量級では、その敷居の高さは全く違うのです。
世界と陸続きではない、中量級、それも純正階級の日本タイトル。具体的にはライト級とウェルター級、ミドル級です。
日本とアジアの王者になると行き止まりの悲しい階級です。
それでも奮闘努力したGood Loserの物語です。
💫吉野弘幸と上山仁💫
大学時代に高校総体(インターハイ)ライトウェルター級に出場したOBがいました。「どこまでいったんですか?」と聞く私に「勝ち進んだけど棄権した。怪物と言われていた奴と当たってしまて顧問に『棄権してくれ』と頼まれて」と、先輩はボソッと答えました。


バスケスもコッジも悪い選手ではありませんが、B級王者です。そんな王者にも圧倒されたのですから、二人が世界をつかむ可能性などゼロに近かったのでしょう。
先輩も「有名な選手で一泡吹かせてやる」と意気込んでいたそうですが、「強い相手に勝ってこそボクシング」と厳しく指導してくれた顧問の先生が、口を真一文字に結んで申し訳なさそうに頭を下げる姿に、棄権を受け入れたといいます。
その怪物が、坂本孝雄でした。
そのとき、すでに坂本は日本ウェルター級王座を2連続KOで防衛中。1988年3月21日の3度目の防衛戦には、途轍もない大舞台が用意されていました。
完成したばかりの東京ドームで行われる統一ヘビー級タイトルマッチ、マイク・タイソンvsトニー・タッブスの前座に起用されたのです。
対戦相手は全く無名の吉野弘幸(7勝4KO3敗)、メインイベント以上に一方的な試合になると誰もが確信していました。
試合は確かに一方的でした。吉野が振るう左フックの嵐の前に坂本は圧倒された末、4ラウンドでノックアウトされてしまうのです。※坂本はその後実業家に転身、今では地元広島で大きな成功を収めています。
大番狂わせは、フロックに思えましたが、吉野はこのタイトルを10連続防衛(9KO)と圧倒的なスタイルで守りますが、なにしろウェルター級です。今も当時も世界で最もレベルが高く、世界王者に挑戦するのも最も難しい階級です。
世界の扉は開かれないばかりか、どこにあるのかさえわからないからノックすることもできませんでした。
そして、同じジレンマに身を焦がす日本チャンピオンがすぐ近くにいました。ジュニアミドル級のタイトルをやはり10連続防衛(8KO)していた上山仁です。
上山のキャリアで二つの汚点、黒星とドローはいずれも吉野に付けられたもので、吉野のウェルター級王座に挑戦したときには3ラウンドでKOされていました。
当時、世界の中量級はスーパースター不在の低迷期とはいえ、吉野のウェルター級はメルドリック・テーラー(WBA)、サイモン・ブラウン(WBC)、上山のジュニアミドルはジルベール・デュレ(WBA)、テリー・ノリス(WBC)といった地味な実力者たちがベルトを巻いていました。
日本に呼ぶのはとても予算が立たない、敵地に行くにも挑戦者は列を作って並んでいる状態です。
日本タイトルを圧倒的な内容で10連続防衛しても、世界が全く見えない状況に、二人のモチベーションは微妙でした。
吉野は挑戦者を何度ぶっ倒しても世界が近づかない状況に失望し、上山は吉野との〝三度目の正直〟を熱望し続けて、ついに実現させました。
結果は上山の意地が死闘を制して、7ラウンドに宿敵を3度倒してKO勝ち。現役日本王者、しかもともに10連続防衛中の強打者がノンタイトル10回戦(160ポンド契約)で激突するという注目の一戦でしたが、軽量級なら二人ともとっくの昔に世界挑戦できているはずでした。
1992年12月、その月の14日に13度目の防衛戦を予定していた上山に突然の世界タイトルマッチのオファーが舞い込みます。18日にブエノスアイレスで空位のWBAジュニアミドル級王座を争わないか、というものでした。
いくらなんでも急すぎる話ですが、ここを逃せば世界戦のチャンスなんて2度と巡ってこないかもしれません。
「明日が試合だ、と言われてもOKした」。上山は勇躍、アルゼンチンへ飛びました。
相手は1位のフリオ・セサール・バスケス。ブンブン振り回す左の威力しか世界基準にない単細胞ファイターです。しかし、その左を何発も喰らい3度倒されて1ラウンドKO負け。

そして吉野は1993年6月23日後楽園ホールで、やはりアルゼンチンのファン・マルチン・コッジのWBAジュニアウェルター級王座に挑戦(5ラウンドTKO負け)しますが、ウェルター級での挑戦はついに叶いませんでした。

バスケスもコッジも悪い選手ではありませんが、B級王者です。そんな王者にも圧倒されたのですから、二人が世界をつかむ可能性などゼロに近かったのでしょう。
それでも、上山は日本タイトルの防衛記録を20度まで伸ばして、日本チャンピオンのまま引退。「世界」の扉が二度と開かれないとわかっていても、最後まで戦い抜き、不滅の防衛記録を打ち立てました。
吉野は一時、K1で〝世界〟を目指すも運営会社の倒産などで頓挫、再びボクシングのリングに戻り日本ジュニアミドル級のタイトルを奪取、二階級制覇に成功しました。今は地元葛飾でエイチズスタイルボクシングジムを開き、後進の指導にあたっています。
ライト級やウェルター級、ミドル級…世界的に人気のある純正階級であるがゆえに、軽量級のように安易に世界タイトルマッチのリングに上がれなかった純情のブルースはまだまだ続きます。
コメント