1987年8月1日 ラスベガス ヒルトンセンター
マイク・タイソン対トニー・タッカー
WBA/WBC王者のタイソンが30戦全勝27KO、IBF王者タッカーは34戦全勝29KO。
この一戦はドン・キングとHBOが仕掛けた「世界ヘビー級トーナメント」の決勝戦でした。
舞台には当初から無敗のヘビー級王者が激突する“予定”で、それはタイソンvsマイケル・スピンクスであるはずでした。
しかし、スピンクスは低報酬で無名の若手と戦うトーナメントを嫌い、ジェリー・クーニーとのビッグファイトを選択、タイソン戦を引き延ばすことでその商品価値を上げるビジネスに徹します。
招かれざる王者としてリングに上がったのは、トニー・タッカー。実寸175㎝タイソンを約20㎝も上回る195cmのタッカーは、3ヶ月前にスピンクスが返上して空位となったIBFバージョンの王座をバスター・ダグラスをストップして獲得していましたが、その実力は疑問視されていました。
タイソンにも「弱い相手にしか勝っていない」という批判が聞かれましたが、それはヘビー級不毛時代だったからです。トレバー・バービック、ピンクロン・トーマス、ボーンクラッシャー・スミス、タイソンの戦譜にはこの時代の強豪が並んでいました。
一方のタッカーはダグラスに勝ったのが最大の白星。戦績ではタイソンに見劣りしないものの「誰に勝ったのか」という最も大切なモノサシで、タッカーが1−10のオッズでアンダードッグ扱いを受けるのは仕方がありません。
歴史的に見ても「誰に勝ったか」で物足りないタイソンと、それ以下のタッカーが拳を交えた統一戦は、当然のごとく凡戦に終わります。
体格を生かしたクリンチとホールディングを繰り返すことしか出来ないウドの大木に、決定打を打ち込めないタイソン。
見せ場のない12ラウンドで最も有効な一打は、タッカーが初回に放った左アッパーのカウンター。タイソンがよろめいたそのシーンに色めきだった7600人の観衆は、このあと33分以上にわたって塩分過多の試合を見せられることになります。
結果は3−0でタイソン。116−112(取ったラウンドで8−4)というスコアを書いたジャッジもしましたが、タッカーが明白に取ったのは1ラウンドだけ。
報酬はタイソンが250万ドル(当時のレートで3億7500万円)、タッカー110万ドル(1億6500万円)。
タッカーはその後も1998年まで戦い続けますが、再び世界王者になることはなくそのキャリアを閉じました。ダグラスと争った王座も決定戦、タイソンを迎えての初防衛戦でタイトルを手放したのですから、果たしてタッカーは王者だったのか、となると微妙ですね。
1988年6月27日 アトランティックシティ コンベンションホール
マイク・タイソン対マイケル・スピンクス
34戦全勝30KOまで数字を伸ばしたWBA/WBC/IBF王者タイソンは、ついにリネラルチャンピオンのスピンクスをリングに引っ張り上げました。このときスピンクスは31戦全勝21KO。
「弱い相手にしか勝っていない」と言われ続けたタイソンが初めて迎える、一発殿堂との決戦です。
1981年から5年間にわたってライトヘビー級で傑出した実績を上げたスピンクスは、48戦全勝のラリー・ホームズとのやはり無敗対決に勝って「ヘビー級を制した史上初のライトヘビー級王者」となります。
しかし、スピンクスの古傷の右膝は致命的なまでに悪化、試合の延期も考えましたがタイソン相手ではBサイド、わがままは通りません。そして、ライトヘビーとヘビー級で強豪相手に戦った31戦全勝に、達成感を覚えてしまっていたのです。
試合は91秒で終わりました。
このメガファイトで、タイソンは2200万ドル(当時のレートで約29億円)、スピンクスは1350万ドル(18億円)と共にキャリアハイの報酬を手にしました(タイソンの金額は当時のプロボクサー歴代1位)。
タイソンは圧勝しましたが、歴史的評価は逆転します。
リング誌の1980年代PFPではタイソンは7位、スピンクスの4位を下回るのです。ヘビー級低迷時代の統一王者タイソンと、ライトヘビー級の統一王者でヘビー級まで制したスピンクス。直接対決で圧勝したのは全盛期タイソンと、ボロボロの最晩年スピンクス。
このランキングは仕方ないとは思いますが、無差別級へのリスペクトが欠けているようにも思えます。もちろん、スピンクスはその無差別級を制したのですが…。結果論で意図したものではありませんが、彼は実に器用にキャリアを積み上げたものだと感心します。
ちなみに1位はシュガー・レイ・レナード、2位マービン・ハグラー、3位サルバドール・サンチェス。文句無しです。
マイク・タイソン対トニー・タッカー
WBA/WBC王者のタイソンが30戦全勝27KO、IBF王者タッカーは34戦全勝29KO。
この一戦はドン・キングとHBOが仕掛けた「世界ヘビー級トーナメント」の決勝戦でした。
舞台には当初から無敗のヘビー級王者が激突する“予定”で、それはタイソンvsマイケル・スピンクスであるはずでした。
しかし、スピンクスは低報酬で無名の若手と戦うトーナメントを嫌い、ジェリー・クーニーとのビッグファイトを選択、タイソン戦を引き延ばすことでその商品価値を上げるビジネスに徹します。
招かれざる王者としてリングに上がったのは、トニー・タッカー。実寸175㎝タイソンを約20㎝も上回る195cmのタッカーは、3ヶ月前にスピンクスが返上して空位となったIBFバージョンの王座をバスター・ダグラスをストップして獲得していましたが、その実力は疑問視されていました。
タイソンにも「弱い相手にしか勝っていない」という批判が聞かれましたが、それはヘビー級不毛時代だったからです。トレバー・バービック、ピンクロン・トーマス、ボーンクラッシャー・スミス、タイソンの戦譜にはこの時代の強豪が並んでいました。
一方のタッカーはダグラスに勝ったのが最大の白星。戦績ではタイソンに見劣りしないものの「誰に勝ったのか」という最も大切なモノサシで、タッカーが1−10のオッズでアンダードッグ扱いを受けるのは仕方がありません。
歴史的に見ても「誰に勝ったか」で物足りないタイソンと、それ以下のタッカーが拳を交えた統一戦は、当然のごとく凡戦に終わります。
体格を生かしたクリンチとホールディングを繰り返すことしか出来ないウドの大木に、決定打を打ち込めないタイソン。
見せ場のない12ラウンドで最も有効な一打は、タッカーが初回に放った左アッパーのカウンター。タイソンがよろめいたそのシーンに色めきだった7600人の観衆は、このあと33分以上にわたって塩分過多の試合を見せられることになります。
結果は3−0でタイソン。116−112(取ったラウンドで8−4)というスコアを書いたジャッジもしましたが、タッカーが明白に取ったのは1ラウンドだけ。
報酬はタイソンが250万ドル(当時のレートで3億7500万円)、タッカー110万ドル(1億6500万円)。
タッカーはその後も1998年まで戦い続けますが、再び世界王者になることはなくそのキャリアを閉じました。ダグラスと争った王座も決定戦、タイソンを迎えての初防衛戦でタイトルを手放したのですから、果たしてタッカーは王者だったのか、となると微妙ですね。
1988年6月27日 アトランティックシティ コンベンションホール
マイク・タイソン対マイケル・スピンクス
34戦全勝30KOまで数字を伸ばしたWBA/WBC/IBF王者タイソンは、ついにリネラルチャンピオンのスピンクスをリングに引っ張り上げました。このときスピンクスは31戦全勝21KO。
「弱い相手にしか勝っていない」と言われ続けたタイソンが初めて迎える、一発殿堂との決戦です。
1981年から5年間にわたってライトヘビー級で傑出した実績を上げたスピンクスは、48戦全勝のラリー・ホームズとのやはり無敗対決に勝って「ヘビー級を制した史上初のライトヘビー級王者」となります。
しかし、スピンクスの古傷の右膝は致命的なまでに悪化、試合の延期も考えましたがタイソン相手ではBサイド、わがままは通りません。そして、ライトヘビーとヘビー級で強豪相手に戦った31戦全勝に、達成感を覚えてしまっていたのです。
試合は91秒で終わりました。
このメガファイトで、タイソンは2200万ドル(当時のレートで約29億円)、スピンクスは1350万ドル(18億円)と共にキャリアハイの報酬を手にしました(タイソンの金額は当時のプロボクサー歴代1位)。
タイソンは圧勝しましたが、歴史的評価は逆転します。
リング誌の1980年代PFPではタイソンは7位、スピンクスの4位を下回るのです。ヘビー級低迷時代の統一王者タイソンと、ライトヘビー級の統一王者でヘビー級まで制したスピンクス。直接対決で圧勝したのは全盛期タイソンと、ボロボロの最晩年スピンクス。
このランキングは仕方ないとは思いますが、無差別級へのリスペクトが欠けているようにも思えます。もちろん、スピンクスはその無差別級を制したのですが…。結果論で意図したものではありませんが、彼は実に器用にキャリアを積み上げたものだと感心します。
ちなみに1位はシュガー・レイ・レナード、2位マービン・ハグラー、3位サルバドール・サンチェス。文句無しです。

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