1988年、単身上京。同郷の宮下政会長の沖ジムを訪ねた竹原慎二は衝撃を受けます。ジムが〝存在しなかった〟のですから。
沖ジムは当時、名前だけ、協栄ジムに間借りしていたのです。
しかし、当時の協栄は日本ボクシング界を牽引する活気にあふれていました。竹原が「鬼塚勝也さんが新人ながら注目され、日本王者クラスもいっぱいいて、とても刺激的だった」と回想しています。
確かに、練習相手にも苦労するミドル級で、日本王者の田島吉秋とスパーリング出来た竹原は幸運でした。
自信満々で臨んだプロテストはその通りに合格。
しかし、ミドル級が特別な階級であることは、東京に出てきたばかりの竹原にでも肌感覚で理解できていました。
「日本か東洋か、何かチャンピオンになりたいと思ってたけど、世界は全く意識できなかった」。
1987年、マービン・ハグラーがシュガー・レイ・レナードとのメガフィトに敗れて、王座は分散したものの、あの当時日本人がミドル級の世界王者になるなんてマンガにもならない現実離れした話でした。
自分よりも20㎝も小さな軽量級のボクサーたちが、軽々しく「世界王者になりたい」と語るのを聞いても、ミドル級の竹原は冗談でも「世界」を口にすることなど出来ませんでした。
あらゆるスポーツで歓迎されるはずの身長186㎝の恵まれた肉体は、ことボクシングとなると、重たい荷物に過ぎなかったのです。
実際に「日本王者になってから、かえって世界が遠く感じた」と言います。
かつて、日本人に身近だったJr.ミドル級もレナードがアユブ・カルレを屠った頃から、遠い存在になってしまいました。
竹原がプロテストに合格した頃のJr.ミドルは、ドナルド・カリーやジョン・ムガビ、ジュリアン・ジャクソンらが覇権を争う世界で、かつての日陰感はありませんでした。
ミドル級はもちろん、Jr.ミドルですら、周囲はもちろん、竹原本人も「世界は無理」と諦めるしかない世界に飛び込んでしまったのです。
それでも、日本王者、東洋王者と駒を進める中で、竹原の胸に負けじ魂の炎が灯ります。
実家で両親が経営していた焼き肉店で、酔った客が「ボクシングの日本王者なんて大したことない」とバカにするのを聞いて、普段温厚な母親が「あなたの息子は日本一になったことがあるのか」と激昂したという話も、竹原の耳に入ってきました。
「ミドル級で世界なんて絶対無理」。以前は、自身もうなずくしかなかった周囲の声が、いつのまにか腹立たしく聞こえるようになりました。
「絶対無理?だったらやってやろうじゃないか!」。
そして、時代と運も、竹原に寄り添うようになります。
ハグラー陥落でタイトルが分散しただけでなく、レナードのエゴと気まぐれ共にメガファイトの舞台もスーパーミドルに移行、IBF王者のバーナード・ホプキンスが統一戦線に乗り出すまで、ミドル級は液状化の様相を呈するのです。
そんな地盤沈下のミドル級で、格好のターゲットが現れました。
WBA王者のホルヘ・カストロです。
スピードとパワーを兼ね備えたWBC王者のクインシー・テーラー、後のレジェンドIBF王者のバーナード・ホプキンスと比べると何枚も格が落ちるカストロは「短命に終わる穴王者」と揶揄されながらも激闘と番狂わせを繰り返して、いつのまにか4度も防衛。
65%というKO率はこの階級では平凡ながらも、104戦98勝(68KO)4敗2分という、近代ボクシングでは考えられない試合数も不気味に映りました。
カストロはムラっ気があって、楽勝予想の今回は完全に舐めてかかってくる…楽観的観測が的中します。
ダブついた腹で計量を済ませたカストロの気だるそうな姿に、「デブには負けたくない」と竹原は一層の闘志をたぎらせました。
竹原はカストロを攻め落とした翌年、1996年のウィリアム・ジョッピー戦を最後にグローブを吊るしましたが、アルゼンチンの人間機関車は竹原に敗れた後も戦い続け、2007年まで走り続けました。
その戦績は、竹原戦からさらに40戦!も積み重ね、144戦130勝(90KO)11敗3分でリングを降りました。
竹原が沈めたアルゼンチン人は、世界評価がなんと言おうが、間違いなく強い王者でした。
そして、竹原が初めてミドル級を制したあの日から22年が経ちましたが、誰一人としてこの階級でベルトを巻くことが出来ていないのです。
沖ジムは当時、名前だけ、協栄ジムに間借りしていたのです。
しかし、当時の協栄は日本ボクシング界を牽引する活気にあふれていました。竹原が「鬼塚勝也さんが新人ながら注目され、日本王者クラスもいっぱいいて、とても刺激的だった」と回想しています。
確かに、練習相手にも苦労するミドル級で、日本王者の田島吉秋とスパーリング出来た竹原は幸運でした。
自信満々で臨んだプロテストはその通りに合格。
しかし、ミドル級が特別な階級であることは、東京に出てきたばかりの竹原にでも肌感覚で理解できていました。
「日本か東洋か、何かチャンピオンになりたいと思ってたけど、世界は全く意識できなかった」。
1987年、マービン・ハグラーがシュガー・レイ・レナードとのメガフィトに敗れて、王座は分散したものの、あの当時日本人がミドル級の世界王者になるなんてマンガにもならない現実離れした話でした。
自分よりも20㎝も小さな軽量級のボクサーたちが、軽々しく「世界王者になりたい」と語るのを聞いても、ミドル級の竹原は冗談でも「世界」を口にすることなど出来ませんでした。
あらゆるスポーツで歓迎されるはずの身長186㎝の恵まれた肉体は、ことボクシングとなると、重たい荷物に過ぎなかったのです。
実際に「日本王者になってから、かえって世界が遠く感じた」と言います。
かつて、日本人に身近だったJr.ミドル級もレナードがアユブ・カルレを屠った頃から、遠い存在になってしまいました。
竹原がプロテストに合格した頃のJr.ミドルは、ドナルド・カリーやジョン・ムガビ、ジュリアン・ジャクソンらが覇権を争う世界で、かつての日陰感はありませんでした。
ミドル級はもちろん、Jr.ミドルですら、周囲はもちろん、竹原本人も「世界は無理」と諦めるしかない世界に飛び込んでしまったのです。
それでも、日本王者、東洋王者と駒を進める中で、竹原の胸に負けじ魂の炎が灯ります。
実家で両親が経営していた焼き肉店で、酔った客が「ボクシングの日本王者なんて大したことない」とバカにするのを聞いて、普段温厚な母親が「あなたの息子は日本一になったことがあるのか」と激昂したという話も、竹原の耳に入ってきました。
「ミドル級で世界なんて絶対無理」。以前は、自身もうなずくしかなかった周囲の声が、いつのまにか腹立たしく聞こえるようになりました。
「絶対無理?だったらやってやろうじゃないか!」。
そして、時代と運も、竹原に寄り添うようになります。
ハグラー陥落でタイトルが分散しただけでなく、レナードのエゴと気まぐれ共にメガファイトの舞台もスーパーミドルに移行、IBF王者のバーナード・ホプキンスが統一戦線に乗り出すまで、ミドル級は液状化の様相を呈するのです。
そんな地盤沈下のミドル級で、格好のターゲットが現れました。
WBA王者のホルヘ・カストロです。
スピードとパワーを兼ね備えたWBC王者のクインシー・テーラー、後のレジェンドIBF王者のバーナード・ホプキンスと比べると何枚も格が落ちるカストロは「短命に終わる穴王者」と揶揄されながらも激闘と番狂わせを繰り返して、いつのまにか4度も防衛。
65%というKO率はこの階級では平凡ながらも、104戦98勝(68KO)4敗2分という、近代ボクシングでは考えられない試合数も不気味に映りました。
カストロはムラっ気があって、楽勝予想の今回は完全に舐めてかかってくる…楽観的観測が的中します。
ダブついた腹で計量を済ませたカストロの気だるそうな姿に、「デブには負けたくない」と竹原は一層の闘志をたぎらせました。
竹原はカストロを攻め落とした翌年、1996年のウィリアム・ジョッピー戦を最後にグローブを吊るしましたが、アルゼンチンの人間機関車は竹原に敗れた後も戦い続け、2007年まで走り続けました。
その戦績は、竹原戦からさらに40戦!も積み重ね、144戦130勝(90KO)11敗3分でリングを降りました。
竹原が沈めたアルゼンチン人は、世界評価がなんと言おうが、間違いなく強い王者でした。
そして、竹原が初めてミドル級を制したあの日から22年が経ちましたが、誰一人としてこの階級でベルトを巻くことが出来ていないのです。
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