山中が追いつき追い越そうとした、具志堅用高という伝説のボクサーは表舞台に登場した40年以上前から、伝説にふさわしいエピソードに満ち溢れたボクサーでした。

そればかりか、スーパースターに不可欠の条件である「時代と歴史からの寵愛」も十二分に受けたボクシング界を超えた存在でした。

「琉球王朝の血統を継ぐ天才ボクサーが沖縄にいる」。

沖縄が本土復帰した1972年から、そんな噂がボクシング界で飛び交いました。その卓越したセンスでインターハイで優勝した天才は、1976年モントリオール五輪の金メダルが期待され、興南高校から拓殖大学へ進学します。

当時の沖縄は長く米国の占領下にあり、本土からはミステリアスな存在でした。

そんなタイミングで「琉球王朝の血筋を引く天才がいる」なんて、漫画か映画の世界です。インターネットなどカケラもなかった時代、私たちは期待に胸を膨らませると同時に「本当か?」という疑念も抱きました。


【13連続防衛は、当時の現役ボクサーでは最多となる数字でした。12で具志堅と並んでいたのが、あのウィルフレド・ゴメスでした。】

伝説は、まだまだ続きます。大学進学のため羽田空港に降り立った天才を待っていたのは、大学からのお迎えではありませんでした。

具志堅は空港の到着ロビーで〝拉致〟されてしまうのです。

協栄ジムの関係者は、訥々と天才を説得します。その情熱としつこさに、石垣島から来た18歳の青年は根負けしてしまいます。

その前年に、具志堅の噂を聞きつけ、極秘に沖縄視察した海老原博幸は「途轍もない素質」「とんでもないボクサーになる」と金平正紀会長に報告、「同じサウスポーのお前とどっちが上だ?」と聞く金平会長に海老原は「具志堅です」と即答していたと言います。

それにしても、空港で待ち構えて掻っさらうなんて、無茶苦茶な話です。

何はともあれ、こうして「100年に一人の天才」はプロの世界に足を踏み入れます。ここからも伝説です。神様が周到に用意した演出が続きます。

そして、迎えた74年5月のデビュー戦。フライ級4回戦で判定勝ちも、圧勝を期待したファンは「どこが天才?」とスピードもパワーも感じられない平凡なパフォーマンスに冷ややかな視線を送りました。

たまたま調子が悪かっただけ、そう弁解するためか2戦目も同じ相手が用意されますが、またもや見るべき内容の無いまま判定勝ち。

「沖縄へ帰ろう」。具志堅の心は折れかけていました。

考えてみると、海老原が惚れ込んだ高校時代の具志堅は、なんと45kg以下のモスキート級。

プロ最軽量フライ級リミットは50.80kgですから、その間には5kg以上もの差がありました。フライ級とジュニアフェザー級(55.34kg)以上の差です。

実際にプロ4戦目までの具志堅が乗ったスケールは、デビューから50.12、50.35、50.23、50.01と、いずれもフライ級リミットを大きく下回っていました。

そして、神の配剤です。1975年にWBAとWBCがフライ級の下に、ジュニアフライ級(48.98kg)を新設すると発表したのです。


【具志堅が13度防衛した当時の世界ランキング。13番目の階級、ジュニアフライが増設されても、世界王者は2団体26人しかいませんでした。ジョー小泉が「2団体26人!ここまで世界王者が増えるとマニアでも把握できないから、王者26人を詳しく解説する」という特集も組まれていますが、今となっては笑うしかありません。】

具志堅に、海老原の目に「途轍もない素質」と焼きついたパフォーマンスが蘇ります。対戦相手のサイドを突く自在のフットワーク、チャンスでも焦らずボディとショートから組み立てる冷徹なコンビネーション、一気呵成の踏み込み、破壊的なパンチングパワー、そして無慈悲なまでの殺傷本能。

フリオ・セサール・チャベスやマニー・パッキャオのように、減量で削られることのない自然で野生的な強さを取り戻した具志堅に、もはや敵はいません。

1976年1月に世界ランカー、セザール・ゴメス・キーを鮮やかに7ラウンドKO、タイトルマッチにGOサインが出ます。

具志堅にとって神の配剤となったジュニアフライ級の新設には、メディアもファンも二つの目を向けていました。

一つ目は、水増し階級の増設は世界王者の価値をいたずらに貶める罪であるという見方です。「承認団体としては階級新設で承認料の窓口も増やしたい」「ジムとしては世界戦興行が打てる枠が広がるのは大歓迎」という営利的な目的以外には、フライ級の下に48kgリミットの階級を無理やり作ることに意味はありません。

二つ目は具志堅のような「フライ級でも重い」ボクサーは、アジア、中南米には少なくなく、その救済措置はあってもいいかもしれないというもの。ボクシングの階級が英国、欧米人の体格を考えて作られた「減量して50.80kg」が最軽量というのは、確かに一考の余地がある功にも見えました。

そして、このチャンス拡大に最初に飛びついたのは具志堅ではありません。1975年12月に島袋武信がWBC王者ルイス・エスタバにKO負け、翌月76年1月には天龍数典がハイメ・リオスの技巧に翻弄されて完敗してしまうのです。

フライ級では重すぎる才能がジュニアフライに活路を見出す。

その大きな潮流が、日本だけではなく、世界的であったのは、至極当然のことでしたが、新設の水増し階級が、けして甘いタイトルでないことにメディアもファンも気付き始めます。

しかも、具志堅が挑戦するのは階級最強と目されるファン・グスマン。さらに、折り悪いことに、この1976年は日本ボクシング界の厄年になりかけていたのです。

5月8日にはガッツ石松が2年間保持していたWBCライト級王座をエステバン・デ・ヘススに追われ、その10日後には奇跡の復活を遂げた輪島功一がホセ・デュランにKO負け、日本は世界王者不在の時代を迎えてしまうのです。

世界と戦う日本人を応援できるのはボクシングしかなかった時代。世界王者を失う絶望と、新しいヒーロー誕生への渇望は、現代では想像するのは難しいかもしれません。

さぁ、なにはともあれ!これで神様が配剤した舞台装置は、全て整いました!

10月10日、体育の日(当時)、山梨学院大学体育館。

具志堅のランキングはWBA10位でしたが、WBCでは1位、軽量級に疎い米国でも評価は高く「最もタイトルに近い未来の王者」と見られていましたが、日本では、グスマンは「リトル・フォアマン」と喧伝され、ネットの無い時代では海外のブックメイカーがこの試合に「互角」のオッズを立てていたことも知る由もありません。

恐怖のドミニカ人に沖縄の天才が圧倒される…嫌な予感は、開始ゴング早々から気持ち良いほどに裏切られます。

21歳の若者は、テクニック、スピード、全身からみなぎるエネルギー、そしてグスマンが上と見られたパンチ力でも圧倒、日本ボクシング史上に残る、痛快な王座奪取劇を演じてみせます。

ダウンした相手にも襲いかかる見境の無い獰猛さと、一発強打に頼らずボディとショートパンチをつないでフィニッシュを探るコンビネーションの冷静さ。アフロヘアの異形のヒーローは、この職業に最も必要な二つの資質を持ち合わせていました。


【勝ち名乗りを受ける具志堅のこの精悍さ!日本のボクシングファンは、神様が贈ってくれた宝物を、このとき、確かに受け取りました。】

そして、ここから伝説のバトンは神様の手を離れます。

具志堅用高は、リング誌の1970年代という10年区切りのPFPで9位にランキングされる偉大なキャリアを疾走していくのです。

まだまだ、伝説は続きます。。。

※実際、このときの世界王者空位を最初に埋めたのは、前日の9日に蔵前国技館でリゴベルト・リアスコをKOしてジュニアフェザー級のWBCバージョンを獲得したロイヤル小林でした。しかし、小林はまだ世界的な評価を得ていないアレクシス・アルゲリョに敗れるなど脆い一面を露呈、翌11月に敵地ソウルで廉東均に判定負け、わずか47日の短命王者で終わってしまったことも、後世のインパクトを薄めてしまっています。

ロイヤルは、返す返すも不運な巡り合わせのキャリアを送ったボクサーでしたが、アルゲリョ、ゴメス、エウセビオ・ペドロサと一発殿堂のスーパースター3人と拳を合わせたことで、ボクシングファンの記憶には永遠に刻まれ続けます。