具志堅用高の時代、1970年代までは軽量級のボクサーに「ラスベガスだ」「世界の舞台だ」と煽るようなファンはほとんどいませんでした。それは1980年代に入っても変わりません。
1986年に日本史上最高の1ラウンドを演出して WBCジュニア・ウェルター級王者となった浜田剛史は、ライバル王者は地味なパトリツォ・オリバだったものの、1階級下のライト級にはヘクター・カマチョとリビングストン・ブランブル、更にすぐ上のウェルターには統一王者ドナルド・カリーが君臨していました。浜田は期せずして、途轍もないホットゾーンのど真ん中に飛び込みましたが、この状況に興奮したのは一部のボクシングマニアだけでした。
浜田の衝撃的な王座奪取に狂喜乱舞したファンにとっても、カマチョやカリー、この年にカムバック宣言するシュガー・レイ・レナードら世界的なスーパースターは日本人が挑むのもおこがましい存在で、そのことをファンの方がわきまえてしまっていた時代でした。
世界ジュニア・ミドル級王座も、中量級でありながら当時の日本人には馴染みの深いタイトルでしたが、輪島に「カルロス・モンソンを倒して2階級制覇だ!」なんて発想は本人にもファンにもなく、悪い意味でも身の程をわきまえていたのです。
今なら、浜田に対して「カマチョを日本に呼べ!」「カリーとベガスでやれ!」とネットは大盛り上がりだったでしょう。
そんな牧歌的な時代、ファンが世界戦をおとなしく楽しむ謙虚だった時代に、超日本級の天才が現れ、謙虚なボクシングファンも「こいつなら本物の世界でも通用するのでは」と色めき立ちました。「ファイティング原田以上の天才」と呼ばれた倉敷出身の少年の注目度と評価は、プロ入り前から傑出したものでした。
最近では亀田兄弟、井岡一翔、井上尚弥らがプロ入り前から注目されていましたが、辰吉丈一郎に注がれた視線の熱度は彼らをはるかに凌駕していました。
【デビュー前からその注目度は群を抜いていました。浪速のジョーは、最初はニュー〝浪速のロッキー〟。世界的なボクサーになると確信された才能は、ファンが最初に期待した場所に辿り着くことはありませんでしたが、47歳の今なお現役と言い張り、生き様で多くのファンを魅了する浪速節に昇華しました。】
渡辺二朗をスパーリングで圧倒し、チャベスやタイソンの動きを簡単にトレースする器用さを披露した辰吉にはデビュー2戦目で、マイク・タイソンの世界戦〝東京ショッカー〟の前座、東京ドームが用意されます。前タイ王者を2ラウンドKOで倒して、大観衆は狂喜しましたが、このときすでに致命的な欠陥を露呈していたことに気づいていた人はいても、指摘する人は誰一人いませんでした。
晩年再三指摘された、ガードの甘さです。特に右のガードが不用意に下がるクセは最後まで修正されることはありませんでした(失礼しました!まだ引退していないのでこの言い方は間違いですね)。
フロイド・メイウェザーが典型ですが、防御とガードの高さは、絶対的なペアではありません。
実はボクシングの技術で最も有効なブロックは手と腕によるガードではありません。ショルダーロールです。
そして、ショルダーロールはガードを低くしてこそ機能します。ただ、この技術はエイドリアン・ブローナーですらマスターすることが出来ない難解な技術です。そして、ブローナーを見るまでもなく、完全に習得できないなら、これほど危険な技術はありません。現役選手でまともに体得しているのは、アンドレ・ウォードただ一人だけでしょう。
この技術を持たないボクサーが不用意にガードを下げるのは自殺行為です。辰吉はショルダーロールをマスターするどころか、おそらくはきちんとした練習も積まないまま、身体能力で劣る相手に被弾しながらも派手な勝利を続けましたが、そのキャリアが早晩破綻するのは不可避の宿命だったのです。
その致命的な欠陥を暴露したのが、技術ではなく頑丈な肉体と鋼の精神力で突貫してくるB級ファイター、ビクトル・ラバナレスでした。ラバナレスは、良い意味でも悪い意味でも野獣です。勝てると感じた相手には不屈の根性で攻め込みますが、明白に分が悪いとなると逃げ腰になります。
評判ほどのパワーもなく防御に欠陥を抱える辰吉相手なら自信満々で突っ込んでくるのに、軽量級離れした強打を持つシリモンコン・ナコントン・パークビューの前では怯えた小動物のようにおとなしくなるのです。
ドン・キングも惚れ込んだシリモンコンの才能は本物でした。なかなか組んでもらえない世界戦でも数少ないチャンスをもぎ取って、バンタムとジュニア・ライトの2階級を制覇、ビッグネームとの対戦に漕ぎ着けることこそ出来ませんでしたが、その戦績は92勝(57KO)、敗北はわずか3つだけ。その3敗もKOされたのは、たったの一度だけです。
もし、辰吉にKOされていなければシリモンコンは、マニー・パッキャオを先駆けるアジア人になっていたかもしれません。
…現在40歳になるシリモンコンは、まだ戦っています。今年2月にはWBCアジアのミドル級!タイトルに挑戦、判定負け。これが90戦を超えるキャリアでの3敗目です。それでも5月には空位のUBOインターコンチネンタルのジュニア・ミドル級タイトルを獲得、10月にはやはり空位のIBO東洋太平洋ジュニア・ミドル級タイトルに挑戦します。
層が厚く、欧米が本場のミドル級でトップ戦線に浮上することは至難の技ですが、頑張って欲しいですね。辰吉に負けた控え室で人目をはばからず号泣していた、少年のようなあどけない表情をした20歳のタイ人は、あの敗北でフェイドアウトすると思った人も多かったでしょう。
しかし…。あれから20年、あのときの少年が40歳になっても、まだ戦っているとは。まだ、世界王者を夢見て、戦っているとは。
話が脱線してしまいました。辰吉の見栄えのするボクシングに世界を見たファンやメディアは、ラバナレスに負けても、まだ白昼夢を見続けました。
↑辰吉の首を狙う無敗の強豪たち1994年版です。こういう無敗の対戦相手というのは、現実にはたいしたことなく終わることも多いのですが、このメンツはすごいですね。
アントニオ・マルコ・バレラは「チャベスの後継者」と目されたホープの一人でしたが、まさか本当にその座を射止めるとは。ナジーム・ハメドはこの当時バンタム級で「英国のカマチョ」の触れ込みでしたが、フェザー級で悪魔王子に登りつめます。〝キッド・ダイナマイト〟ダニー・ロメロと辰吉は激闘確実、実現しなかったのが残念です。ウェイン・マッカラーは無敗のまま、辰吉に勝った薬師寺保栄からスプリットデジションで王座を奪いました。
デビュー前から日本の枠を超えたボクサーになると過剰な期待をかけられた辰吉の実力は、眼疾がなかったとしても、その絶大な人気と印象とは懸け離れたものでした。
それでも、ジョーのリングには、勝っても負けても、どんなときでもスリルと興奮が仕掛けれれていました。
叶わなかったとはいえ、多くのファンに大きな夢を与えてくれました。その夢が萎んだ後も、周囲の反対をよそに戦い続け、「誰に勝ったか」「何回防衛したか」なんて問うのがナンセンスになるほどに、人間の生き様を魅せる独自の世界を築き上げました。
彼はボクシングのプロではなく、辰吉丈一郎であることのプロだったのです。つまり、一生現役です。死ぬまで現役です。
1986年に日本史上最高の1ラウンドを演出して WBCジュニア・ウェルター級王者となった浜田剛史は、ライバル王者は地味なパトリツォ・オリバだったものの、1階級下のライト級にはヘクター・カマチョとリビングストン・ブランブル、更にすぐ上のウェルターには統一王者ドナルド・カリーが君臨していました。浜田は期せずして、途轍もないホットゾーンのど真ん中に飛び込みましたが、この状況に興奮したのは一部のボクシングマニアだけでした。
浜田の衝撃的な王座奪取に狂喜乱舞したファンにとっても、カマチョやカリー、この年にカムバック宣言するシュガー・レイ・レナードら世界的なスーパースターは日本人が挑むのもおこがましい存在で、そのことをファンの方がわきまえてしまっていた時代でした。
世界ジュニア・ミドル級王座も、中量級でありながら当時の日本人には馴染みの深いタイトルでしたが、輪島に「カルロス・モンソンを倒して2階級制覇だ!」なんて発想は本人にもファンにもなく、悪い意味でも身の程をわきまえていたのです。
今なら、浜田に対して「カマチョを日本に呼べ!」「カリーとベガスでやれ!」とネットは大盛り上がりだったでしょう。
そんな牧歌的な時代、ファンが世界戦をおとなしく楽しむ謙虚だった時代に、超日本級の天才が現れ、謙虚なボクシングファンも「こいつなら本物の世界でも通用するのでは」と色めき立ちました。「ファイティング原田以上の天才」と呼ばれた倉敷出身の少年の注目度と評価は、プロ入り前から傑出したものでした。
最近では亀田兄弟、井岡一翔、井上尚弥らがプロ入り前から注目されていましたが、辰吉丈一郎に注がれた視線の熱度は彼らをはるかに凌駕していました。
【デビュー前からその注目度は群を抜いていました。浪速のジョーは、最初はニュー〝浪速のロッキー〟。世界的なボクサーになると確信された才能は、ファンが最初に期待した場所に辿り着くことはありませんでしたが、47歳の今なお現役と言い張り、生き様で多くのファンを魅了する浪速節に昇華しました。】
渡辺二朗をスパーリングで圧倒し、チャベスやタイソンの動きを簡単にトレースする器用さを披露した辰吉にはデビュー2戦目で、マイク・タイソンの世界戦〝東京ショッカー〟の前座、東京ドームが用意されます。前タイ王者を2ラウンドKOで倒して、大観衆は狂喜しましたが、このときすでに致命的な欠陥を露呈していたことに気づいていた人はいても、指摘する人は誰一人いませんでした。
晩年再三指摘された、ガードの甘さです。特に右のガードが不用意に下がるクセは最後まで修正されることはありませんでした(失礼しました!まだ引退していないのでこの言い方は間違いですね)。
フロイド・メイウェザーが典型ですが、防御とガードの高さは、絶対的なペアではありません。
実はボクシングの技術で最も有効なブロックは手と腕によるガードではありません。ショルダーロールです。
そして、ショルダーロールはガードを低くしてこそ機能します。ただ、この技術はエイドリアン・ブローナーですらマスターすることが出来ない難解な技術です。そして、ブローナーを見るまでもなく、完全に習得できないなら、これほど危険な技術はありません。現役選手でまともに体得しているのは、アンドレ・ウォードただ一人だけでしょう。
この技術を持たないボクサーが不用意にガードを下げるのは自殺行為です。辰吉はショルダーロールをマスターするどころか、おそらくはきちんとした練習も積まないまま、身体能力で劣る相手に被弾しながらも派手な勝利を続けましたが、そのキャリアが早晩破綻するのは不可避の宿命だったのです。
その致命的な欠陥を暴露したのが、技術ではなく頑丈な肉体と鋼の精神力で突貫してくるB級ファイター、ビクトル・ラバナレスでした。ラバナレスは、良い意味でも悪い意味でも野獣です。勝てると感じた相手には不屈の根性で攻め込みますが、明白に分が悪いとなると逃げ腰になります。
評判ほどのパワーもなく防御に欠陥を抱える辰吉相手なら自信満々で突っ込んでくるのに、軽量級離れした強打を持つシリモンコン・ナコントン・パークビューの前では怯えた小動物のようにおとなしくなるのです。
ドン・キングも惚れ込んだシリモンコンの才能は本物でした。なかなか組んでもらえない世界戦でも数少ないチャンスをもぎ取って、バンタムとジュニア・ライトの2階級を制覇、ビッグネームとの対戦に漕ぎ着けることこそ出来ませんでしたが、その戦績は92勝(57KO)、敗北はわずか3つだけ。その3敗もKOされたのは、たったの一度だけです。
もし、辰吉にKOされていなければシリモンコンは、マニー・パッキャオを先駆けるアジア人になっていたかもしれません。
…現在40歳になるシリモンコンは、まだ戦っています。今年2月にはWBCアジアのミドル級!タイトルに挑戦、判定負け。これが90戦を超えるキャリアでの3敗目です。それでも5月には空位のUBOインターコンチネンタルのジュニア・ミドル級タイトルを獲得、10月にはやはり空位のIBO東洋太平洋ジュニア・ミドル級タイトルに挑戦します。
層が厚く、欧米が本場のミドル級でトップ戦線に浮上することは至難の技ですが、頑張って欲しいですね。辰吉に負けた控え室で人目をはばからず号泣していた、少年のようなあどけない表情をした20歳のタイ人は、あの敗北でフェイドアウトすると思った人も多かったでしょう。
しかし…。あれから20年、あのときの少年が40歳になっても、まだ戦っているとは。まだ、世界王者を夢見て、戦っているとは。
話が脱線してしまいました。辰吉の見栄えのするボクシングに世界を見たファンやメディアは、ラバナレスに負けても、まだ白昼夢を見続けました。
↑辰吉の首を狙う無敗の強豪たち1994年版です。こういう無敗の対戦相手というのは、現実にはたいしたことなく終わることも多いのですが、このメンツはすごいですね。
アントニオ・マルコ・バレラは「チャベスの後継者」と目されたホープの一人でしたが、まさか本当にその座を射止めるとは。ナジーム・ハメドはこの当時バンタム級で「英国のカマチョ」の触れ込みでしたが、フェザー級で悪魔王子に登りつめます。〝キッド・ダイナマイト〟ダニー・ロメロと辰吉は激闘確実、実現しなかったのが残念です。ウェイン・マッカラーは無敗のまま、辰吉に勝った薬師寺保栄からスプリットデジションで王座を奪いました。
デビュー前から日本の枠を超えたボクサーになると過剰な期待をかけられた辰吉の実力は、眼疾がなかったとしても、その絶大な人気と印象とは懸け離れたものでした。
それでも、ジョーのリングには、勝っても負けても、どんなときでもスリルと興奮が仕掛けれれていました。
叶わなかったとはいえ、多くのファンに大きな夢を与えてくれました。その夢が萎んだ後も、周囲の反対をよそに戦い続け、「誰に勝ったか」「何回防衛したか」なんて問うのがナンセンスになるほどに、人間の生き様を魅せる独自の世界を築き上げました。
彼はボクシングのプロではなく、辰吉丈一郎であることのプロだったのです。つまり、一生現役です。死ぬまで現役です。
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