世界的な統括団体が存在せず、任意の承認団体だけが乱立、階級も17までに増殖した現在のボクシング界では、アルファベット団体の世界王者は数多く存在する世界王者の中の一人に過ぎません。

承認団体が一つしか無かった時代、8階級しか存在しなかった時代では、たった8人しかいない世界王者を倒す以外に世界王者になる方法はありえませんでした。もちろん、世界王者に挑戦するには、唯一無二の本当の世界ランキングに入らなければなりません。

今、WBAやWBC などアルファベット団体が発表している世界ランキングは、どれもこれも欺瞞に満ちたインチキランキングです。リング誌では「OLD SCHOOL 8」というミニコーナーで「もし今も8階級だったら誰が世界王者か?」を4人の専門家が独自の8人を挙げています。

ここで、編集長のマイケル・ローゼンタールをはじめ4人中3人が、井岡一翔(フライ級)と山中慎介(バンタム級)を「世界王者」に推してくれています。とはいえ、このランキングもリング上で決着したものではなく、専門家の脳内で作られた妄想でしかありません。


羅針盤を失った現在のプロボクシング界では、世界王者という「肩書き」や、防衛回数や複数階級制覇という「数字」には大きな意味はありません。

ボクサーの価値は、肩書きや数字ではなく「誰に勝ったか」の一点で決まります。

しかし、長谷川穂積や内山高志、山中慎介が国内限定で長期政権を築くと、必ずスポットライトが当たるのが13度防衛という日本記録、数字です。世界王者が4団体で一人ずつ乱立するだけでなく、スーパーやレギュラー、暫定、名誉王者にダイアモンド王者…節操もなく世界王者が粗製乱造され、今や「世界王者=世界一」という他のスポーツでは当たり前の方程式が完全に崩壊しているのがプロボクシングの世界です。現状では、数字を意識すれば、今後も防衛10度を超えるボクサーは間違いなく何人も現れるでしょうし、複数階級制覇でも4階級、5階級を果たす日本人が近い将来現れるでしょう。

この13度の防衛記録を打ち立てたのが、言わずと知れた具志堅用高です。沖縄返還からわずか4年で国民的なヒーローがその地から誕生したという歓喜の沸騰は、「新設のジュニア・フライは水増し階級、王者の価値を貶める」という非難も木っ端微塵にノックアウトしました。

獰猛なカンムリワシがファン・グスマンからWBAジュニア・フライ級王座を強奪したのは、1976年10月の事でした。戦慄の闘争本能を見せつけて強打の王者を圧倒した沖縄の青年に日本中が熱狂しましたが、この年の日本列島はもう一つの記録にも沸き立っていました。王貞治がベーブ・ルースの714号を抜く715号を放ち、ハンク・アーロンの世界記録755号の更新へのカウントダウンが始まったのも1976年でした。

1976年を起点に、具志堅と王は〝記録〟に向かって日本中の注目と応援を集めながら偉大な並走をしていたことになります。当時の王の年俸は8000万円(実際にはもっともらっていたという説もありますが)、具志堅の1試合の報酬は最高で7500万円×年4回を普通に戦っていました。具志堅は、プロ野球で超がいくつも付くトップ選手の年俸とほぼ同額を、たった1試合で稼ぎ、年収にすると約4倍を稼ぐプロボクサーだったのです。

具志堅以前のプロボクサーの報酬には、さらに凄まじいものがありました。白井義男が1試合で稼いだ最高額は1000万円といわれていますが、今の貨幣価値に換算すると優に2億円を超えていました。もはや1950年代当時のプロ野球選手では比較対象にもなりません。1960年代はやはりファイティング原田、ピーク時は1試合で5000万円以上を稼いだといいますから当時の貨幣価値では5億円、とんでもない金額です。30年後の1990年代にマイケル・カルハバルとウンベルト・ゴンザレスが軽量級では破格の100万ドルファイターになりましたが、原田はもちろん、具志堅でも彼らの報酬に対する憧憬は微塵も抱かなかったでしょう。

それでも、当時の原田や具志堅が巻き起こした国民的熱狂、プロボクシングへの注目度の高さを考えると、その報酬はむしろ安いというのが普通の感覚です。…今では、想像すらできないことですが。

一方で、当時はインターネットなど無い時代とはいえ、水増し階級の極みであるジュニアフライ級の世界王者の国際的なステイタスがどれほどのものか、箱庭球場で積み重ねられた王の記録が世界最高峰のMLBの記録と単純比較できるわけがないこと、二人が真の世界一ではないだろうことは多くの人が気づいていました。

しかし、そんな理屈を全く気にしないおおらかさと、目の前に現れた偉大な日本人アスリートを心の底から応援したいという純情が、空気が、あの時代までは、確かに残っていたのです。

ほとんどのボクシングファンもグスマンが「リトル・フォアマン」であるわけがないことなど、わかっていました。

それでも具志堅は、タイトルを奪ったグスマン、元王者のハイメ・リオス、1階級上のフライ級で元王者だったアルフォンソ・ロペス(小熊正二に勝って初防衛に成功)と元王者にきっちり勝っています。確かに、具志堅が13度まで伸ばした防衛テープには、眼を見張るような対戦相手の名前はありません。

とはいえ、当時の世界はまだ「ヘビー級が動くが如くボクシングが動く」時代です。今以上に軽量級の地位、注目度は低く、そもそも軽量級に世界的なビッグネームが存在することは極めて稀でした。(もちろん、破格の評価を得ていたエデル・ジョフレ、人気でもルーベン・オリバレス、カルロス・サラテらビッグネームと呼べるメキシカンらは散発的に登場してはいましたが)。

あの当時は「王に MLBに挑戦して欲しい」「王がMLBに行ったら通用するのか」なんて議論さえされなかったように、「具志堅にラスベガスで戦って欲しい」と願うファンもいませんでした、そういう時代だったのです。その意味で、具志堅の13度防衛は、近年の日本人ボクサーの長期政権とは明らかに性格が異なります。

王貞治が今のNPBにいたら、868本も本塁打を打つ前にさっさとMLB入りしてることは間違いありません。MLBの方が世界的評価が圧倒的に高く、報酬も名誉も破格、何よりもアスリートとしての挑戦本能を満たしてくれる高嶺に聳えているからです。

しかし、具志堅用高が今の日本のリングにいたとしても、やはり国内引きこもり路線を繰り返すしかなかったでしょう。世界的な評価はさておき、報酬・待遇面で日本を大きく凌駕するリングなどラスベガスにもニューヨークにもありません。それどころか、日本以下というのが現状です。

【具志堅の小さな骨格は「どんなに食べても52、3kg」。デビューはフライ級(50.8kg)でしたが、50.1kgとリミットを大きく下回る体重しか作れませんでした。ジュニア・フライ級の新設は具志堅にとってまさに天恵でした。新設であるがゆえに層が薄く強豪は少なく、さらにフライ級から転級してきた相手は減量で疲弊消耗していました。「当時ミニマム級があれば、間違いなくそこで戦っている」。ミニマムの具志堅、半端なく強かったでしょう。】

一夜にして日本中の誰もが知る国民的ヒーローとなり、過酷なリングで防衛記録を13度まで伸ばした具志堅は、初めて沖縄の地で14度目の凱旋防衛戦を行いますが、故郷のリングに散ります。

それでも、具志堅の13度防衛は、あの時代のヒーローに求められていた理想の姿でした。間違いなく、偉大な記録です。

翻って、現在の日本人世界王者たちは、21世紀のスポーツヒーロー像にふさわしい姿には見えません。もちろん、米国と日本でボクシング人気が凋落したことも、軽量級の本場が日本であることも、彼らには一片の責任もありません。

「海外でビッグマッチ」…現代の世界王者たちが日本国内の緊縛に絡められながら呪文のように唱えるも、決して叶えられることがない悲しい夢。

そんな幻想のような悲しい夢を見ることなく、ボクシングも日本もずっとずっと元気で活きの良かった時代に、目の前に真っ直ぐに伸びた一本道をひたすら疾走することに集中できた具志堅は、今のボクサーよりもずっと幸せだったのではないでしょうか。