1ヶ月後に迫ったアンソニー・ジョシュアvsウラジミール・クリチコ。この一戦がボクシングの中心を再びヘビー級に引き戻す導火線となるのか?

今でこそヘビー級は、17階級の一つでしかありませんが、80年代まではその存在は圧倒的でした。ボクシングとはすなわちヘビー級であり、ヘビー級こそがボクシングだったのです。その歴史を紐解くと、スポーツの枠を超えた社会的な存在ですらありました。ヘビー級の歴史を振り返るには100年以上も前に遡らなければなりません。

19世紀後半、プロスポーツなど実質ボクシングしかありませんでした。おそらくスポーツという概念も無かったでしょう。ピュギリスト(職業拳闘家)たちは殴り合いを見世物にして、観戦入場者から集金した興行主から報酬を受け取って生業としていました。テレビもラジオもない時代、ゲート収入が唯一の売り上げでした。

1890年から2017年までの127年をディケイド(10年刻み)で辿っていきます。

■1890〜1899年:グローブ時代の夜明け■
最高のヘビー級王者はジム・ジェフリーズ。
トップ選手のスパーリングパートナーとして貴重な経験を積み重ねたジェフリーズは1899年にボブ・フィッツモンズをKOして世界王者に就きます。フィッツモンズは、ロイ・ジョーンズJrが2003年にジョン・ルイスを破ってヘビー級王者になるまでの104年間に渡り、史上唯一のヘビー級を制したミドル級王者でした。

ベアナックル最後の伝説、ジョン・L・サリバンからジム・コーベット、フィッツモンズと移ったグローブルール黎明期のボクシングはジェフリーズによって20世紀に引き継がれたのです。

■1900〜1909年:ガルベストンの巨人がカラーラインを引き千切る■
この時代、人種差別は違法ではありません。スポーツの世界ですら。黒人と同じリングに上がることを拒否できる権利「カラーライン」を使って、世界王者たちから敬遠されたジャック・ジョンソンは「黒人ヘビー級王座」の防衛を着々と重ねながら、王者トミー・バーンズとの対戦を熱望。世界中どこでもバーンズを追いかけまわし、1908年ついに豪州シドニーでバーンズをリングに引き上げます。

試合は一方的になってもジョンソンがトドメを刺さず、残酷な展開が進み、14回白人警官がリングに上がり込んで試合をストップ。〝TKO〟でジョンソンが悲願の世界王者になりました。この時のジョンソンの報酬は3万5000ドル、今の貨幣価値だと150万ドル!でした。

しかし、人種差別が歴然と存在する時代に、白人王者を嬲りものにした末に倒して莫大な報酬も受け取ることが許されたなんて、軽率な言動かもしれませんが、自由の国の度量の大きさもまた感じさせられます。よく暗殺されなかったとすら思いますね。

この時代ですでにヘビー級タイトルマッチは社会的なイベントであり、〝事件〟でした。それにしても、異なる人種のボクサーを同じリングに上げないカラーラインは、忌むべき人種差別でしたが、その事態は黒人の能力に恐れおののいた白人たちの見苦しい必死の自己防衛でした。

■1910〜1919年:転石苔むさず/デンプシー時代の幕開け■
1910年、無敗のまま引退していた19世紀の伝説、ジェフリーズが白人の復権を懸けてジョンソンに挑戦する世紀の対決が実現しますが完全なミスマッチに終わります。15ラウンド KOで王座を防衛したジョンソンは、過酷な差別に苦しめられていた黒人たちの希望の星でした。

全米各地でジョンション勝利を祝ったパーティーが暴動と見なされ、射殺される黒人までいました。しかし、黒人は白人に劣ってると叩き込まれ下を向いて生きるしかなかった彼らの真っ暗闇の心の中に、ジョンソンは一筋の光を、決して消えることのない光を確かに差し込ませたのです。

どんなに強いボクサーでも絶対に勝てない相手がいます。時間です。1915年、37歳になったジョンソンは、キューバはハバナの決闘で身長198㎝の巨漢ジェス・ウィラードに屈します。

白人復権を果たして〝アメリカの神〟になったウィラードが1919年7月4日に防衛戦を行った相手は身長185㎝、体重84kg、ヘビー級としては貧弱な24歳。この日が歴史にその名を刻むスーパースターの誕生日になるとは誰一人予想してなかったでしょう。

序盤から無名の若者の暴風雨のような猛攻を受けた王者は、鼻骨と3本も肋骨をあっという間にへし折られてしまいます。滅多打ちにされる神様の姿に大観衆は悲鳴をあげ、3ラウンドが終了するとコーナーはタオルを投げて、鮮烈すぎる王者交代劇が完了しました。

■1920〜1929年:転石苔むさず/ラジオの時代■
日雇い仕事を求めて全米を放浪していたジャック・デンプシーが1914年のデビュー戦で受け取った報酬はたったの3ドル50セント。それから7年後、1921年ニュージャージー州ジャージーの特設スタジアムに8万183人の大観衆を集めた防衛戦の興行規模は史上初の100万ドルを突破します。この頃のデンプシーの報酬は10万ドルを優に超え、大統領はもちろん、ベーブ・ルースも凌駕し、ヘビー級王者はとにかく別格という印象を世界に焼き付けました。

この時の相手はこれぞフランス人という〝蘭の男〟ジョルジュ・カルパンチェで、現役の世界ライトヘビー級王者。デンプシーのパワーと、カルパンチェのスピードの対決は、デンプシーの4ラウンドKO勝利に終わります。

カルパンチェが勝てば打ち上がるはずの蘭の花に模した薄紅色の花火を見ようと、パリでは多くのファンが夜空を見上げていました。しかし、パリっ子たちが待ち焦がれた花火はいつまでたっても上がらず、漆黒の夜空にようやく開いたのはフランス希望の花が撃ち落とされたことを伝える一筋の青い花火でした。

また、この試合は史上初めてラジオで実況生中継され、全米がリングの興奮をリアルタイムで共有出来る時代が幕を開けました。ゲート収入は依然として売上のほとんどを占めていましたが、唯一無二の収入源ではなくなりました。ラジオ放送権料、ラジオCMが収入を支えるようになります。ボクシング、世界ヘビー級タイトルマッチの興行規模と注目度、存在感は膨れ上がる一方でした。

どんなに強い王者にも必ず落日の時が訪れます。

1927年シカゴ・ソルジャー球技場。デンプシーのタイトルはジーン・タニーに〝ロングカウント事件〟の末にタイトルを明け渡します。73年後のタイソンvsダグラスは8ラウンドですが、この時は7ラウンドでした。6連発のデンプシーロールがヒットするとタニーはダウン。ここでニュートラルコーナーに行かなかったため主審がすぐにカウントを始めず、15秒近い回復時間を与えられてタニーが盛り返して、判定をものにしたのです。

激動の20年代から次の時代へ。新しい世界が胎動していました。

【晩年のデンプシー(右端):かつて浮浪者だったとは思えない名士の風格ですね】