チャンネル数に代表されるさまざまな制約を法律的にも受けるテレビと、その多くから解放された動画配信ではそもそも勝負になりません。

地上波テレビ局だけの時代の視聴者は「人気コンテンツの放映権」をどこが獲ろうが、無料で観れる環境に変わりはありませんでした。

しかし、現在ではNetflixがWBCを独占中継しているように「有償で加入」しなければ見ることができない環境が出来上がっています。

英国などで定着しているユニバーサルアクセス権は「五輪など時別に国が指定した大会の生放送の権利を独占契約することを法律で禁止する」ことで、国民的イベントを誰もが無料で見られる権利を保証しています。

もちろん「国家介入は(たかが娯楽にすぎない)スポーツ放送の独立性や自由な経済競争の形を歪める」という反対意見も、ユニバーサルアクセス権が審議された20世紀末の英国議会から現在まで根強く残っています。

一方で、スポーツはたかが娯楽ではなく、国民が共有すべき文化財だという意見がユニバーサルアクセス権の根底にあります。

国民的関心を集める大谷翔平ではなく、ユニバーサルアクセスが取り沙汰されることすらない女子レスリングの選手が国民栄誉賞に選ばれている矛盾は、すでに〝イチロー〟の段階で明白になったように国民栄誉賞は非常に政治色が濃いだけでなく「相思相愛が原則」。

国民の審査レベルが高いスポーツ選手を対象とした国民栄誉賞は、審査レベルが低く政治的動機に左右される政府との選考基準のギャップが大きく即刻廃止すべきでしょう。

「スポーツはたかが娯楽」なのか「文化財」なのか?その線引きはどこに引くのか?