モントリオール五輪、ライトウェルター級で金メダルを獲得したシュガー・レイ・レナードは破格の待遇でプロ入り、1977年2月5日のデビューから足掛け20年、ウェルター級からライトヘビー級までの5階級で世界王者に就きました。
ウェルター級ではウィルフレド・ベニテス、ロベルト・デュラン、トーマス・ハーンズと素晴らしい試合を繰り広げ、当時は影の薄かったジュニアミドル級はハーンズ戦に向けた調整試合でした。
1987年4月6日、網膜剥離で実質5年のブランクから復帰、いきなり挑んだミドル級のUndisputed Championマービン・ハグラーとの世界タイトルマッチは「挑戦資格がない」という至極真っ当な理由でWBAとIBFが認定せず、WBCだけがステイクされました。
レナードが本当の意味で輝いていたのは、ここまでの10年間、35試合だけでした。
残りの10年間で戦ったわずか5試合でどんなに大金を稼ごうが、どんなに注目を集めようが、どの試合も一つ残らず、虚飾と欺瞞が鼻につくつまらない試合でした。
話が脇道に逸れる前に、階級の間を綱渡する「Tight Rope -Game=禁じられた遊び」のお話です。
前述したように、レナードはWBCウェルター級(147ポンド)タイトル2期目の初防衛戦(1981年3月28日:ラリーボンズ戦)を145ポンドで軽量したあと、3ヶ月足らずの6月25日にWBAジュニアミドル級(154ポンド)王者アユブ・カルレに挑戦、圧倒的有利の予想通りにアマチュア世界王者のカルレを9ラウンドで破壊します。
このときのウェイトはボンズ戦よりも8ポンドも重い153ポンド。
そして、やはり3ヶ月に満たない9月16日にボクシング史上最高傑作と今なお謳われるハーンズとのウェルター級Undisputed championshipのリングに145ポンドで上がるのです。
わずか5ヶ月半の短期間で145→153→145と体重を乱高下させながら見事なパフォーマンスを見せつけたのは、24歳から25歳という若さゆえに可能だった〝綱渡り〟だったのでしょうか?
そして、1987年4月6日のハグラー戦のあと、再戦要求をはぐらかし続けたレナードは禁断の試合に手を出してしまいます。
https://fushiananome.superknova.org/archives/4855410.html
https://fushiananome.superknova.org/archives/4855411.html
1988年11月17日、シーザースパレス・屋外特設アリーナ。WBCライトヘビー級王者ドニー・ラロンデを168ポンドのスーパーミドル級リミットまで干からびさせたキャッチウェイト。さらに、ライトヘビー級とスパーミドル級のタイトルを同時にステイクさせる狂気の沙汰。
このときレナードが乗った秤は165ポンド、ハグラー戦の158ポンドから7ポンド上乗せ。
翌1989年のハーンズ第2戦(6月12日)、デュラン第3戦(12月7日)では、5ポンド削って160ポンドに揺り戻し。
ここで1年3ヶ月のブランクを作ったレナードは1991年2月9日にWBCジュニアミドル級王者テリー・ノリスに挑戦。このときは154ポンドで秤を降りました。
圧倒的有利、弱い者イジメと非難された試合でしたが、ここでTight Ropeが解け切れてしまいます。2ラウンドと7ラウンドにダウンを喫し、「アイドルを殴るのは悲しかった」(ノリス)という温情に助けられ、ノックアウト負けを免れるのが精一杯。
このノリス戦で154ポンドに削った〝下山〟で、レナードの生理が不調をきたし、大敗に繋がったという見方が一般的ですが…。
34歳のレナードは「今度こそ引退」とグローブを吊るします。
1997年には一発殿堂を果たしますが、あろうことかこの年の3月1日に6年1ヶ月のブランクからリングに舞い戻ってきます。相手は、かつて「ハグラーは大きすぎる、カマチョは小さすぎる」と対戦の可能性を否定していた34歳のヘクター・カマチョ。
IBCミドル級タイトルというガラクタベルトがかけられた40歳のレナードはノリス戦から5ポンド増やした159ポンド…とはいえ6年以上前の話です。階級を渡るタイトロープ云々の話ではありません。
レナードのキャリアを振り返ると「体重の乱高下」によって新陳代謝などの生理が破綻、リング上での惨敗に繋がったとは考えられません。
思いがけない惨敗の最大の理由は、もっと別にあります。
それでは、体重の乱高下、階級の間に張られたタイトロープを弄ぶことで、パフォーマンスに大きな影響が出るというのはレアケースであったり、個人差の問題なのでしょうか?
ジョー小泉が「ロイ・ジョーンズ現象」と呼ぶことがある、下りのタイトロープで墜落し悲惨な敗北を喫した張本人の場合はどうなのでしょうか?
ウェルター級ではウィルフレド・ベニテス、ロベルト・デュラン、トーマス・ハーンズと素晴らしい試合を繰り広げ、当時は影の薄かったジュニアミドル級はハーンズ戦に向けた調整試合でした。
1987年4月6日、網膜剥離で実質5年のブランクから復帰、いきなり挑んだミドル級のUndisputed Championマービン・ハグラーとの世界タイトルマッチは「挑戦資格がない」という至極真っ当な理由でWBAとIBFが認定せず、WBCだけがステイクされました。
レナードが本当の意味で輝いていたのは、ここまでの10年間、35試合だけでした。
残りの10年間で戦ったわずか5試合でどんなに大金を稼ごうが、どんなに注目を集めようが、どの試合も一つ残らず、虚飾と欺瞞が鼻につくつまらない試合でした。
話が脇道に逸れる前に、階級の間を綱渡する「Tight Rope -Game=禁じられた遊び」のお話です。
前述したように、レナードはWBCウェルター級(147ポンド)タイトル2期目の初防衛戦(1981年3月28日:ラリーボンズ戦)を145ポンドで軽量したあと、3ヶ月足らずの6月25日にWBAジュニアミドル級(154ポンド)王者アユブ・カルレに挑戦、圧倒的有利の予想通りにアマチュア世界王者のカルレを9ラウンドで破壊します。
このときのウェイトはボンズ戦よりも8ポンドも重い153ポンド。
そして、やはり3ヶ月に満たない9月16日にボクシング史上最高傑作と今なお謳われるハーンズとのウェルター級Undisputed championshipのリングに145ポンドで上がるのです。
わずか5ヶ月半の短期間で145→153→145と体重を乱高下させながら見事なパフォーマンスを見せつけたのは、24歳から25歳という若さゆえに可能だった〝綱渡り〟だったのでしょうか?
そして、1987年4月6日のハグラー戦のあと、再戦要求をはぐらかし続けたレナードは禁断の試合に手を出してしまいます。
https://fushiananome.superknova.org/archives/4855410.html
https://fushiananome.superknova.org/archives/4855411.html
1988年11月17日、シーザースパレス・屋外特設アリーナ。WBCライトヘビー級王者ドニー・ラロンデを168ポンドのスーパーミドル級リミットまで干からびさせたキャッチウェイト。さらに、ライトヘビー級とスパーミドル級のタイトルを同時にステイクさせる狂気の沙汰。
このときレナードが乗った秤は165ポンド、ハグラー戦の158ポンドから7ポンド上乗せ。
翌1989年のハーンズ第2戦(6月12日)、デュラン第3戦(12月7日)では、5ポンド削って160ポンドに揺り戻し。
ここで1年3ヶ月のブランクを作ったレナードは1991年2月9日にWBCジュニアミドル級王者テリー・ノリスに挑戦。このときは154ポンドで秤を降りました。
圧倒的有利、弱い者イジメと非難された試合でしたが、ここでTight Ropeが解け切れてしまいます。2ラウンドと7ラウンドにダウンを喫し、「アイドルを殴るのは悲しかった」(ノリス)という温情に助けられ、ノックアウト負けを免れるのが精一杯。
このノリス戦で154ポンドに削った〝下山〟で、レナードの生理が不調をきたし、大敗に繋がったという見方が一般的ですが…。
34歳のレナードは「今度こそ引退」とグローブを吊るします。
1997年には一発殿堂を果たしますが、あろうことかこの年の3月1日に6年1ヶ月のブランクからリングに舞い戻ってきます。相手は、かつて「ハグラーは大きすぎる、カマチョは小さすぎる」と対戦の可能性を否定していた34歳のヘクター・カマチョ。
IBCミドル級タイトルというガラクタベルトがかけられた40歳のレナードはノリス戦から5ポンド増やした159ポンド…とはいえ6年以上前の話です。階級を渡るタイトロープ云々の話ではありません。
レナードのキャリアを振り返ると「体重の乱高下」によって新陳代謝などの生理が破綻、リング上での惨敗に繋がったとは考えられません。
思いがけない惨敗の最大の理由は、もっと別にあります。
それでは、体重の乱高下、階級の間に張られたタイトロープを弄ぶことで、パフォーマンスに大きな影響が出るというのはレアケースであったり、個人差の問題なのでしょうか?
ジョー小泉が「ロイ・ジョーンズ現象」と呼ぶことがある、下りのタイトロープで墜落し悲惨な敗北を喫した張本人の場合はどうなのでしょうか?
コメント
コメント一覧 (2)
ここハグラーのウィキではレナードのワガママにより本来は15ラウンドだったのが12ラウンドで試合しなければならない関係でベルトを2つ外されたとありますが、これは2つの理由が複合したという事ですかね?
2つだけではないのかも知れませんが……
フシ穴の眼
が
しました