リング誌/Lineal/WBC/WBAジュニアフライ級王者・寺地拳四朗は8月にWBCにの指名試合をクリアすると、団体統一の〝規定路線〟に戻るか、フライ級に上げて2階級制覇に舵を取るか、二つの選択肢を考えています。

まずは、指名戦。WBC1位のヘッキー・ブドラーを明白に下すこと。

田口良一からタイトルを奪い、京口紘人にストップされた〝The Hexecutioner〟は5月18日で35歳、2007年から105〜108ポンド(ストロー級〜ジュニアフライ級)で一貫して戦い続けてきた16年のキャリアがフィナーレに近付いているのは間違いありません。

現地時間あさっての5月7日、日本のボクシングファンにもお馴染みの身長160㎝のファイターは、地元ヨハネスブルグにエンリケ・マサグリンを迎えます(109ポンド契約10回戦)。

トレーナーのコリン・ネイサンは「負けて良い試合など1試合もないが、我々は8月に階級最強の寺地拳四朗と日本で戦う。絶対に勝たなければならないし、印象的な勝ち方で(ブドラーを軽く見ているだろう)寺地にメッセージを送りたい」。

南アフリカの歴史で最も有名なボクサーは、監獄の中でもアパルトヘイト撤廃の情熱を燃やし続けたネルソン・マンデラでしょう。

最近では、ブドラーの他にも、井上尚弥とニアミスしたゾラニ・テテや、ノニト・ドネアを苦しめ、八重樫東ら日本人ファイターの前に立ち塞がったモルティ・ムザラネらがすぐ思い浮かびます。

さらに、長谷川穂積とクロスゲームを演じたシンピウェ・べチェカ、ドネアが〝昇竜拳〟を披露したジェフリー・マセブラ、マニー・パッキャオの米国デビューの相手となったリーロ・レジャバ、ジュニアフェザー級の強豪王者ブヤニ・ブング…テクニックに優れた黒人選手たちが目立つ歴史の中で白人ファイター、ブドラーは珍しい存在です。

ヘビー級のゲーリー・コーツィー、洪秀煥にタイトルを奪われたWBAバンタム級王者アーノルド・テイラーも白人だったか。いずれにしても、南アのボクサーで白人が占める割合は5%もないはずです。

1970年代までの国内タイトルは肌の色によって2種類がありました。South African  (White) =白人=と、
South African (Non White) =有色人種=です。

王者が一人でないことは、ボクシングファンが一番痛感している矛盾ですが、南アフリカの場合は肌の色によって区別し、統一戦はあり得ない、米国野球のニグロリーグのようなことが行われていたのです。

アパルトヘイトがなければ、どれほど多くの優秀なNon WhiteのSouth African が世界王者になり、プロボクシングの歴史に鮮やかな色彩を追加してくれていたことか。

Hekkie-Budler-and-Brian-Mitchell-Photo-courtesy-of-Golden-Gloves
FORMER RING MAGAZINE JUNIOR FLYWEIGHT CHAMPION HEKKIE BUDLER (LEFT) AND FORMER TWO-TIME JUNIOR LIGHTWEIGHT TITLEHOLDER BRIAN MITCHELL. PHOTO COURTESY OF GOLDEN GLOVES


1980年代に世界のボクシングに惹き込まれた私にとって、南アフリカのボクサーとはブライアン・ミッチェルのことでした。

内山高志が「あと1勝」に迫った130ポンドの連続防衛記録12を持つテクニシャン。

そして…彼は白人でした。

1986年9月27日、地元南アフリカ・サンシティにWBA王者アルフレド・ライネに挑戦、完璧な試合運びで10ラウンドTKO勝利を収めました。

しかし、この直後に国際的な批判を受けたWBAはアルトヘイト政策を敷く南アでの世界戦を全面的に禁止。WBCやIBFなどの団体もこれに追随します。

そもそも、南アのボクサーは黒人がほとんど。世界戦禁止はその黒人を締め出すことに他なりません。そして、ミッチェルはアパルトヘイトに反対する勇気ある〝反政府主義者〟でした。

「黒人居住区に住んで、彼らと一緒に練習している。彼らとは皮膚の色が違うだけで、同じ人間だということは私が一番よくわかっている」。



こうして、パナマ、フランス、スペイン、メキシコ、英国、米国と敵地で防衛戦を重ねる、ミッチェルのサーカスライフが始まりました。

1988年4月26日、ホセ・リベラとの5度目の防衛戦ではスペイン政府が労働ビザを許可しないと知ると、観光ビザで入国、マドリードでの試合を片付けると、警察の取り調べの手を逃れるように南アに帰国。

「観光ビザで試合をしたら違法だなんて知らなかった。次からは気をつけるよ」とシラを切りますが、この試合を最後にスペインでは入国禁止に。

そのニュースを聞いた世界中のボクシングファンは、ミッチェルに拍手喝采を送ります。

ミッチェルの究極の希望は、大好きなボクシングで強い相手と戦いたい、ということでした。

しかし「南アフリカ人」という国籍だけで、行く先々でアパルトヘイトの反対デモが起き、滞在先のホテルにまで抗議集団が押しかけてくることも珍しくありませんでした。

「私もアパルトヘイトにはずっと反対し続けているんだ!」。ミッチェルは必死に説明しましたが、南アフリカ国籍の白人の口から発せられたというだけで、誰も信じようとも、調べようともしない、デモに参加していたのはそんな暗愚な人々ばかりでした。

そして「強い相手と戦いたい」という願いは、IBF王者トニー〝タイガー〟ロペスとの団体統一戦で一歩を踏み出します。初戦は白熱のドロー。しかし、WBAの指名戦を蹴ってまでして挑んだ再戦では完勝。

あきらかに、潮目が変わりつつありました。

1991年、デクラーク政権が進めたアパルトヘイト法撤廃方針を欧米や日本が評価、経済制裁の解除を決定します。

当時のジュニアライト級シーンは、ボクシングファンから熱視線を集めていました。それは、南アのロード・ウォリアーに対してというよりも、PFPファイターの二人が争うWBCタイトルに向けてでした。

アズマー・ネルソンとジェフ・フェネックです。

しかし、WBCは南ア国籍の選手の世界戦出場を認めるかどうかについて臨時総会を設けることなく、年1回の定時総会に先延ばしします。

タイガー・ロペスと決着をつけたミッチェルは、階級最強を賭けた戦いを熱望しますが、いくら待っても実現せず。3年以上のブランクを作ったあと、格下相手に2試合を戦い引退してしまいました。

あれほど渇望し続けた階級最強をついに証明できなかった不運な南アの白人ボクサー。

しかし、ブライアン・ミッチェルがネルソンよりもフェネックよりも遥かに強大な敵に勇敢に立ち向かった、英雄であることをファンもメディアもみんな知っていました。

2009年、南アフリカのボクサーとして史上初の殿堂入りを果たします。



そして、今もまた、ロシアのボクサーやアスリートが、ロシア国籍というだけで、ブライアン・ミッチェルと同じ憂き目に遭わされています。

人間はいつになったら歴史から学べるようになるのでしょうか。

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【1994〜南アフリカ共和国 国旗】赤は悲しい歴史の中で流された血、青は空と大西洋と太平洋、緑は農業と大自然、黄は金やダイヤモンドに代表される天然資源、黒は黒人、白は白人を表現しています。